2020/03/21
柳之御所/岩手県平泉町
柳之御所は、奥州藤原氏の政庁・平泉館に比定されている遺跡です。訪問日は2017年8月7日です。

ここは道端に広大な芝生が広がっているのでとてもわかりやすいです。
しかも、かなり凸凹がハッキリしています。

なぜここまで綺麗に整備されているのか。
それは、言われれば多分誰もが知っているからです。
奥州藤原氏って知ってますよね?
でも、中尊寺金色堂の近所だと思ってました

史料では柳之御所という名称は登場せず、平泉館と書かれています。
ここを「柳之御所」と呼んでいるのは、字名がそうだったからだそうです。

この遺跡の至る所に、こんな感じで案内があります。
載っている写真は、だいたい発掘中の光景です。

こう見えて、かなり大規模な堀です


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小さな模型もありました。
立体的でイイですね

柳之御所が政庁、伽羅之御所が居館でした。
間に猫間が淵があり、両御所は橋で繋がっていました。

ここは園池とよばれる池で、説明板ではこの形で発掘されていました。
往時はただの水たまりではなく、もっと飾った庭園だったのでしょうけど。

ここにはこんな建物がありました!
・・・という想像図もあります。

その場所がココです。
仮整備中だそうです。
たぶん、今でも仮のままだと思いますw
◆歴史◆
藤原清衡により築かれました。
清原清衡は1087年、後三年の役を制し奥州の覇者となりました。
当初は江刺に館を構え、この時に実父の藤原姓に復しています。
藤原清衡は清原氏や安部氏の失敗に学び、朝廷に従順でした。
藤原摂関家に盛んに贈り物をし、交流を密にしました。
そして1094年かその翌年頃に、平泉館を築き本拠を移転しました。
以後、源頼朝に滅ぼされるまで、奥州藤原氏の本拠となりました。
1108年には中尊寺の造営に着手し、平泉文化の礎を築きました。
1129年、家督争いが起こりました。
1128年に藤原清衡が没すると、家督争いが始まりました。
状況的には後継者・藤原惟常が、異母弟・基衡に討たれています。
藤原惟常は清原氏の娘を母とし、小館で暮らしていました。
一方、藤原基衡は安部氏の娘を母とし、父の平泉館で暮らしていました。
当時の習慣では、後継者が小館で暮らすことが多かったそうです。
母親どうしが仇敵のため、家臣団の争いがあったと考えられています。
争いは1130年、越後に逃れようとした藤原惟常が捕まり、処刑されました。
家督を継いだ藤原基衡は、ちょっと調子に乗ってしまったようです。
1142年、陸奥守・藤原師綱による公田検注を妨害し戦となりました。
その結果、腹心の佐藤季治を処刑されてしまいます。
これに懲りた藤原基衡は、次の陸奥守とは温和な関係を保ちました。
3代目・藤原秀衡の代は落ち着いていました。
藤原基衡の没後は家督争いが無く、嫡男・藤原秀衡が家督を継ぎました。
藤原秀衡は上方での源平の争いには加担せず、常に中立を保ちました。
朝廷との繋がりも保ち、1170年に鎮守府将軍、1181年に陸奥守に叙任。
九条兼実が世も末だと嘆く程の栄華を極めました。
しかし、源頼朝が平家を滅ぼした後は、その挑発に苦労します。
都への献金は自分を通せとか、東大寺再建のため三万両出せと要求します。
無理難題を立て続けに吹っ掛けますが、藤原秀衡はかわし続けました。
そのため、源頼朝も軍事行動には出ることが出来ませんでした。
1189年、藤原泰衡が自ら火をかけ焼失しました。
1187年、藤原秀衡が没すると、源頼朝による攻勢が激しさを増します。
1188年、源頼朝は、藤原氏が匿っていた源義経の討伐を命じます。
藤原家中は大混乱に陥ったようで、藤原泰衡は祖母や弟を立て続けに殺害。
1189年には源義経を殺害し、首を鎌倉に送って恭順の姿勢を示しました。
しかし、源頼朝は討伐令を出させた源義経殺害を口実に軍事行動を開始。
匿っても殺しても、奥州藤原氏討伐に動く事に変わりはありませんでした。
鎌倉軍は奥州へ出陣し、藤原国衡が伊達郡阿津賀志山で迎え撃ちました。
藤原国衡は藤原泰衡の異母兄で、武勇に優れた武将でした。
父・藤原秀衡が、藤原泰衡と争わないよう細心の注意を払った程です。
藤原国衡は寡兵でよく防ぎましたが、3日間の激闘の末に討死しました。
藤原泰衡は異母兄の敗戦により戦意喪失。
平泉館に火をかけ、自ら源頼朝宛に助命嘆願の手紙を書くものの却下。
逃亡先の家臣に裏切られ、首が源頼朝に届けられています。
所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
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