2020/03/19
薄衣城/岩手県一関市
薄衣城(うすぎぬじょう)は、千葉一族・薄衣氏の居城でした。訪問日は2017年8月6日です。

薄衣城は、県道186号線沿いの断崖の上にありました。
その道沿いに見学者用の駐車スペースがあります。

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ここにある縄張図です。
登城口はちょっとだけ戻った所にあるのがわかります。

ここが登城口です。
歩いて5分と言われると、つい「本当?」なんて思ってしまいます。
その脇にある標柱には、搦手口と書かれていました。

入口はちょっと暗い感じでしたが、道はとても整備されています


さらっと登って、3分で開けた場所に出てきました。
この感じ、ここは虎口っぽいです。

最初に着いたのが二郭です。
これで二郭?という位に広いです。

上の写真は、上がって来た登城路から右を向いた光景です。
反対側を向くと、もう1段高い所へと続く道が見えます。
草に覆われた虎口、イイですね




ここでガサッと、結構大きな物音がしました。
かなり大きな獣が、至近距離で急に動き出しました。
生命の危機を感じつつ、視線の先にいたのはコイツでした。
鈴を鳴らしてても10メートル位まで気付いてくれないおっとりさんです。
これでも一応国の特別天然記念物ですw

虎口から上がって見た二郭です。
こんな風に見下ろせる場所こそが主郭ですよね。

ということで、ここに「本丸跡」の標柱があります。
一番高い所にも、かなり広い曲輪が広がっています。

先ほどの標柱から少し離れた所に、とてもきれいな説明板があります。

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この説明板に描かれている図です。
県道からは断崖の上でしたが、こうしてみると登城路が沢山あります。
ここにこの図があることで、次にどっちへ進むかがわかりました。

主郭の端っこに、物陰に入り込む轍が見えました。
何気なく見ていると「あぁ、ココって車で来れるんだ」で終わりそうです。
でも上の図を見て「この先にも曲輪があるんだ」と、こっちへ進みました。

ここに堀切があります。
こっとに来ようと思わなければ見られない遺構です


ただ、三郭四郭はちょっとわかりづらいです。
この雑草茂り放題の荒れ地が、たぶんどっちかだと思います。
一応平らではありますので




登って来た道は搦手でした。
四郭→三郭→主郭のこっちは大手道なのかもしれません。
◆歴史◆
1253年、千葉胤堅により築かれたとされます。
1252年、鎌倉幕府の命令で上洛。
将軍・宗尊親王に従い鎌倉へ下向し、奥州の押さえに任命されました。
その居城として築かれたのが葛丸城で、薄衣城の前身となりました。
時々葛西氏と争いました。
薄衣氏の系図は2通りあり、よくわからないそうです。
あれこれ拝見してると、3代目は葛西家から来た養子だったりします。
1339年には、薄衣氏は葛西高清に攻められています。
葛西高清は南朝方でしたが、この頃から北朝方に寝返っています。
1439年、薄衣清益が戦死した時にも、葛西家から養子が来ています。
こんな感じで、家臣という訳ではなく、独立勢力として活動したようです。
1510年、一族の金沢氏と争って敗れました。
以後の薄衣氏は一時的に表舞台から姿を消します。
1570年代から、薄衣甲斐守が活躍します。
この頃までの薄衣氏の活動はよくわかっていません。
1570年代になると、富沢氏とともに流荘を攻めています。
流荘って、金沢氏や寺崎氏の支配地域ですね・・・
1580年には、葛西家当主に代わって上洛しています。
これってもう、重臣ですよね?
1590年、葛西家とともに滅びました。
奥州仕置きにより葛西家が改易され、薄衣氏も領地を失いました。
東北地方では多くの大名が同じような目に遭っています。
その翌年、太閤検地に反発した葛西・大崎家旧臣達が蜂起しました。
薄衣甲斐守もこの一揆に参加し、黄旗千五百騎の大将を務めています。
ただ、この「薄衣甲斐守」の実名が、史料によりバラバラだそうで・・・
誰だったのか、どこで討たれたのかなど諸説あり定まりません。
所在地:岩手県一関市川崎町薄衣畑ノ沢 GPSログダウンロードページ
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