2013/09/01
箕輪城/栃木県下野市
箕輪城は姿川沿いに有る小さな丘に築かれていました。訪問日は2011年7月16日です。

▲登城口
箕輪城はマイナーなせいか、案内がまったくありません。更に周りの道も細い上に入り組んでいて、中々辿り着けませんでした。なので登城口でこれを見た時はもうヽ(´ー`)ノでした^^・・・ここまで来ないと何も手がかりはないのです


▲小さな神社
登城口は神社の階段で、斜面を真っ直ぐ登ります。かつての城の道ではないんですね・・・それでも城域に入れればそれでいいやw

▲土塁
主郭跡とおぼしき神社周辺をキョロキョロ見回すと・・・ちょっと低いですが土塁発見!

▲空堀
さらに、こちらは綺麗に残っている空堀まで!多少藪はあっても、こうやって余計な事をされずに残っている遺構はやっぱりいいです^^

▲説明板
そして、こじんまりながら説明板もありました。何も無いより、碑なり説明板があると嬉しいですね^^
◆歴史◆
築城年代と築城者は諸説ありますが・・・
最有力なのは、鎌倉時代の寛喜年間(1229~32年の間)、小山朝村が築いたという説です。朝村は小山氏3代目当主・小山朝長の次男です。朝村は薬師寺城を築いて本拠とし、薬師寺姓を名乗るようになりました。
<おそらく城主は薬師寺氏か>
薬師寺氏の中で特に活躍したのが、6代目の薬師寺公義です。公義は鎌倉時代末から室町時代初期の人物で、足利尊氏の側近・高師直に近づきました。高氏は源義朝の3男で足利氏と新田氏の祖・源義国とともに下野国に土着した氏族です。師直が活躍するに従って公義も出世したのですが・・・
師直には師泰という兄が居ましたが、兄弟仲はあまりよくありませんでした。当時は足利尊氏と直義も兄弟喧嘩をしていました。高氏に近い公義は何度も諌めたのですが聞き入れられず、諦めた公義は高野山へ出家しました。
高兄弟が足利直義に討たれて間もなく、公義は還俗して宇都宮公綱に仕えました。そして宇都宮氏を足利尊氏方に引き込み、上野国や駿河などで直義軍を破る活躍をしました。
南北朝時代には、中央の対立が地方に波及し、各地で争いがありました。下野国も例外ではなく、宇都宮氏は北朝方、小山氏は南朝方の中心勢力でした。両者はともに下野守護に任じられており、隣接していたため激しく争っていたと思われます。薬師寺氏は小山氏の出身でしたが、宇都宮氏に仕えていたため北朝方ということになります。
1339年、箕輪城は南朝方の春日顕時に攻められ、抵抗せずに開城した記録があるそうです。春日氏は中央から小田城に来て南朝方と戦っていた北畠氏の家臣です。
時代は下り、1462年に壬生胤業も壬生城の支城としてこの地に城を築いています。箕輪城は壬生城の南東約3kmの所にあり、東の小山氏との勢力境でした。おそらく一度廃城となったものを、小山氏からの防衛拠点として再利用したのでしょう。
<落城・廃城>
廃城の時期も不明ですが、2つの説があります。1つは1558年の落城時、そしてもう1つは1597年の宇都宮氏改易です。
1558年5月、箕輪城は落城したと伝わります。この時攻めて来たのは長尾景虎(のちの上杉謙信)で、葦名盛氏と下野攻略を目指しました。長尾軍は越後から上野、佐野を通り、小山氏の祇園城を降して北上。壬生城も落として多功城を目指しました。
地図で見るとわかるのですが、箕輪城は丁度その進路上にあります。こんな小さな城までと思いますが、武威を示そうとしたのかもしれません。長尾軍の標的が多功城と判明すると、宇都宮勢は多功城に集結。激戦の末、長尾軍の先鋒・佐野小太郎(豊綱)を討ち取り撃退しました。
戦の時期が端午の節句の頃で、そのためこの地域では鯉のぼりを上げなくなったそうですが・・・よその神社の井戸から大きな鯉が出て、神様の使いとして崇めたから、なんてのもありました。
1597年、宇都宮国綱は突然改易となりました。理由は定かではありませんが・・・1つは宇都宮国綱が浅野長政から養子に迎えようとしたが反対され、恨みを買ったという説。もう1つは、太閤検地で秀吉が安堵した18万石ではなく、実はその倍以上だったという石高詐称。
・・・真相は闇の中ですが、これにより宇都宮氏は所領を没収されました。この時に主家と運命を共にして廃城になったという説です。
<廃城後>
現在城跡には磐裂根裂神社(いわさくねさくじんじゃ)があります。難しくて普通には読めない名前ですね。いつ頃から鎮座しているのかはわかりませんでした。この難しい名前の神社は栃木県内にはあちこちにあるようです。
所在地:栃木県下野市箕輪
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