2020/03/16
二桜館/岩手県一関市
二桜館は、合併前の花泉町の町名の由来となったお城でした。訪問日は2017年8月6日です。
今回から岩手シリーズの始まりです。

二桜館は丘城で、登城路は東側にあります。
鳥居の左側は老人ホーム、右側が公民館です。
車は公民館に置かせて頂きました。

公民館の道側にある白い板が、二桜館の説明板です。
結構詳しく書かれています


城跡へは、この坂道をまっすぐ登って行きます♪

奥へ進むと、急に坂がキツクなります。
ここが一番下の曲輪に上がる切岸です。
神社の参道がまっすぐ伸びています。
往時の登城路ではなさそうです。

三段らしいので、一番下が老人ホームや公民館のようです。
石段をひとつ上がったここが二段めの曲輪です。

幅は結構広めです^^

一段めの切岸です。
これだけ急だと登れませんね!

一番上の段です。
ここには八幡神社が鎮座しています。
雰囲気あります


社殿の周りには、土塁が残っています。

社殿の背後には、とても大きな堀切が残っています。
一・二・三段の単純な造りかと思っていたので、嬉しいサプライズです。
この堀切、実は二重だそうです。
訪ねた時の資料を紛失したので、そう認識していたかどうかが?です

◆歴史◆
坂上田村麻呂が築いたと伝わります。
坂上田村麻呂は東北地方の歴史ではよく登場する人物です。
説明板では781年と書かれていますが、791年と思われます。
坂上田村麻呂はこの年でさえ、まだ実戦経験がありませんでした。
第二次蝦夷討伐の際に副吏に任命され、794年末に凱旋しています。
この時の記録はただこの事実のみで、あまり詳しく残っていません。
797年に征夷大将軍に任命され、801年に第三次蝦夷討伐を行っています。
文治年間(1185-90)、照井太郎が拠りました。
説明板には「文治年中(1185~)照井太郎が、」としか書かれていません。
どんな人物なのかググったら、奥州藤原家の家臣でした。
1189年、源頼朝の圧力に屈し、藤原泰衡は匿っていた源義経を討ちました。
この時の「衣川の戦」で、藤原泰衡側の主力だったのが照井太郎でした。
照井太郎は干ばつに苦しむ農民のため、農業用水の整備に着手しました。
志半ばで奥州藤原氏滅亡とともに運命を共にしましたが・・・
子の照井高安に遺志は引き継がれ、やがて照井堰が完成しました。
照井太郎の伝承には、水にまつわるものがいくつか残っています。
1308年から葛西一族・清水氏の居城となりました。
本吉郡の大谷城主・葛西清秀が高倉庄流郷1800貫文を与えられました。
葛西清秀はココに清水館(二桜館)を築き、以後清水姓を名乗りました。
清水氏は1591年の奥州仕置きまで、二桜館を居城としました。
伊達政景が隠居城としました。
伊達政景では耳慣れないのですが、元の名前は留守政景です。
留守家は元々は源頼朝から奥州の「留守」を預かった名門でした。
しかし、室町時代に大崎氏に圧迫され、伊達家の力を借りました。
その代償として伊達家の男子を養子に送りこまれ、その一門となりました。
留守政景は伊達輝宗の実弟で、伊達政宗の叔父です。
奥州仕置き後から二桜城主となり、伊達姓の名乗りを許されます。
伊達政景は1607年に没し、子の伊達宗利は一関城を居城としました。
そのため、二桜館は廃されたものと思われます。
伊達宗利は後に金ヶ崎を経て水沢へ移り、水沢伊達家の祖となります。
水沢伊達家は、明治時代になると留守姓に復姓しています。
所在地:岩手県一関市花泉町花泉上舘(清水公園)
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