2020/02/29
大館城/秋田県大館市
大館城は大館市役所の辺りにあった平城です。訪問日は2017年月10日です。

城跡には二の丸跡に市役所、本丸跡に桂城公園があります。
お役所が城跡というのは、意外とよくあるあるです。
なので、もうちょっと雰囲気が欲しいところですw

市役所の裏へ回り込むと、細長い池があります。
これが本丸の水堀跡です。
平城なのでほぼ消滅していますが、この堀と土塁だけが残っています。

水堀の脇を通り過ぎた所に、屋根付きの銅板が飾ってあります。

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縄張図を立体的にした銅板です。
こういうの、イイですね



この銅板があるのが、真ん中の橋の所です。
市役所は左下にある二の丸の右半分ですが、城跡らしさは全く無し。
上からの堀が道になっており、そのまままっすぐ二の丸を貫いています。
ただ、この写真と地図を並べて見ると、外周の形は何となくわかります。

ということで、ここが小中城門跡です。
今でも公園の入口として、門の役割を果たしています。

水堀の公園側には、高さ3メートル程の土塁が残っています。
こんなのに外周を囲まれていると、ハートがキュンキュンします


とはいえ、本丸跡にある公園は、城跡と言われてもわからないレベルです。
そんな中に、1枚のボードがあります。
陽に焼けてかな~り薄くなってしまっていますが・・・

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写真をいじり倒して、何とか見られるレベルまで濃く出来ました^^
こうして見ても、遺構としてハッキリわかるのは市役所裏の堀と土塁だけです。

公園左側の国道7号線も堀跡です。
何となく感覚で撮っていましたが、改めて図と見比べるとそうですね


あとは、北東端の穴門跡も撮って来ました。
門の跡と言われてもピンと来ないレベルですが・・・
右側の土盛りは、たぶん土塁ですね^^
◆歴史◆
浅利勝頼により築かれました。
浅利勝頼は1562年に家督を継ぎ、1582年に暗殺されました。
そのため、その間に大館城が築かれたことになります。
浅利家は代々、西の檜山安東家、東の南部家に挟まれ争っていました。
1582年、檜山安東家の城になりました。
安東愛季との戦で、和睦すると騙された浅利勝頼が暗殺されました。
浅利軍はこの事で指揮系統を失い、大館は安東家の領地となりました。
この時、浅利勝頼の子・頼平は、津軽為信のもとへ落ち延びています。
大館城は五十目秀兼、和田内膳らが城代となりました。
1588年、南部家の城になりました。
安東愛季の没後、五十目秀兼が南部家に寝返りました。
五十目秀兼は和田内膳を討ち、南部家重臣・北信愛が城代となりました。
1590年、秋田家が奪還しました。
秋田姓に改名した秋田実季が、津軽為信の支援を得て大館を奪還しました。
この時に津軽為信の斡旋により、浅利頼平が秋田家臣となりました。
浅利頼平は、先祖代々の領地である大館に入りました。
1593年、浅利頼平が秋田家と争い始めました。
浅利頼平は秋田家からの独立を志向し、年貢を納めませんでした。
そのため、秋田実季は惣無事令を無視して争い始めました。
この戦は1596年まで続き、浅利頼平は被害を訴えるため大坂に赴きました。
しかし、その最中に急死したため、大館は秋田家領となりました。
浅利頼平の急死には毒殺説もあり、秋田家は釈明に追われました。
1602年、佐竹家の城になりました。
佐竹家の秋田移封のため、秋田家が常陸へ移りました。
大館で浅利旧臣が乱を起こしたものの、小場義成らにより鎮圧されました。
1610年、佐竹西家の小場義成が城主として入城しました。
一国一城令では横手城とともに例外となり、明治時代まで存続しました。
佐竹西家が城代を務め、3代目からは佐竹姓に復しています。
1868年、戊辰戦争の時に落城しました。
久保田藩は奥羽越列藩同盟に参加しましたが、後に新政府側となりました。
そのため、奥羽越列藩同盟側の庄内藩や盛岡藩に攻め込まれました。
大館は盛岡藩に攻められ、8月22日に城代・佐竹義遵が城に火を放ち撤退。
一時的に盛岡藩に占領され、この時に大館の街も焼かれました。
後に新政府軍が大館を奪還しますが、大館城は廃城となりました。
所在地:秋田県大館市中城(本丸:桂城公園、二の丸:大館市役所)
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