2020/02/27
茶臼館/秋田県能代市
茶臼館は檜山城の西側にあった山城です。訪問日は2018年4月14日です。

【1】茶臼館への登城口は、道端にあるこの白い標柱が目印です。
標柱には「葦名・・・」と書かれています。

【2】標柱の所から見た茶臼館方向です。
奥の登り口の所に葦名家の遺臣墓地についての説明板があります。
葦名家といえば会津ですが、なぜココに?
説明板の内容をザックリ書きます。
葦名家は佐竹家から養子に入った葦名義広が継ぎました。
しかし、1589年に伊達政宗に敗れ、葦名義広は会津を失いました。
その後は実家の佐竹家に居り、国替えにも従って角館城を与えられます。
葦名義広は1631年に没し、後を継いだ子らが相次いで没し断絶しました。
そのため葦名家臣は分散し、一部は檜山の多賀谷家に仕えました。
そんな彼らの墓地が、ここにあるという内容です。

【3】葦名遺臣墓地の説明板から、山中へと入る道があります。
茶臼館へは、この坂道を登って行くと辿り着けます。

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自分で歩いておきながら、時間が経つとかな~り忘れてしまいます。
GPSの軌跡を見ながら「なんでこんなジグザグ?」なんて思いました。
それで地理院地図に重ねてみたら、ちゃんと地形に沿って歩いてましたw
せっかくなので、それぞれの写真がどこなのか、番号を書き入れました。

【4】坂道を登り切ると、横堀が現れます

地形図では、北へ伸びる東側の尾根の付け根に当たります。
どうやらこの尾根を分断するためのようです。
最初に現れた堀だったせいか、長い時間ココでウロウロしていました。

【5】写真を撮りまくったものの、どこがどうやら???です

まぁ、とにかく付け根は堀と土塁がウハウハだったようです


【6】東側の曲輪は、半時計回りに進みました。
先端部付近では、東側の道がよく見渡せる所がありました。

【7】付け根側へ戻ると、途中から右側に谷間が現れます。
ああ、向こう側にも曲輪あるな~という感じで、谷間が狭まります。

【8】谷間の縁に沿って進むと、向こう側の尾根を分断する堀が現れます。
こちらの堀の方が、先ほどの倍以上の深さがあります。

【9】こちらの堀は、深さも長さもかなりあります。
南側もそこそこ平坦で、もしかしたら曲輪なのかもしれません。
事前に仕入れた情報では、東西2つの尾根が曲輪という事でした。
この大きな堀の北側が主郭らしく、堀の規模を見て納得しました。
もっと時間があれば、南側も確かめてみたかったです。
というのも、国土地理院の地図では、南側からここに道が描かれています。
もしかしたら、この道が大手道だったかもしれません。

【10】堀底を歩いていると、右側(主郭側)に虎口がありました。
大きな堀に、ココ1か所だけ小さな入口が開いている状態です。
往時は堀に沿って厳重に柵か塀があったかもしれません。

【11】虎口の内側から見た所です。
右奥で堀が分岐していて、南側へ浅い堀が続いています。
その浅い堀が、そのまま南への道になっているのかもしれません。

【12】主郭内部の様子です。
ここではあまり曲輪内の様子を紹介していませんでした。
こんな平らな所もあるんですよ!という写真です。
結構広いです


【13】主郭の右端に沿って進んで行くと、竪堀に遭遇します。

【14】この竪堀は、そのまま主郭の平坦地を分断する堀となります。

【15】堀に沿って進むと尾根の反対側まで続き、竪堀となって落ちます。

【16】そのまま左側の端に沿って進むと、角に出っ張りがあります。

【17】北側の端を東へ進むと、回り込みながら下る道があります。

【18】回り込んで下りた所に、堀切があります


【19】堀切のすぐ先は、そこそこの下り坂です。
登って来ても休ませずに、上から攻撃する造りのようです。

【20】下り坂の先には、まとまった平坦地があります。
雑木林になっていますが、綺麗に削平されているのがわかります。

【21】平らな曲輪の北側からさらに下ると、その先にも堀切があります。

【22】堀切の先にも、下る道が続いています。
ただし、普段人が歩く感じではなく、かなり蔓草で覆われています。
春先の芽吹く前の時期だったからこそ、何とか歩けた感じです。

【23】下の車道から、下りてきた道を見た所です。
どこから登ろうかとココを通っても、気付かないと思います。
◆歴史◆
不明です

檜山城は、1456年に安東政季が葛西秀清を滅ぼして築かれた山城です。
以後、5代にわたり下国安東家が本拠地としました。
その檜山城とは道1本隔てた所に、茶臼館はありました。
著名な安東家の本拠地のすぐ隣にあり、規模もかなり大きいのですが・・・
世間で考えられている説などを紹介します。
津軽氏に滅ぼされた北畠氏が暮らしていた説
1578年、津軽為信により北畠氏の居城・浪岡城が攻め落とされました。
これにより領地を失った北畠(浪岡)顕村が、安東氏を頼ったとされます。
北畠顕村は戦死したとも考えられており、ココに来たのかすら?です。
本人の消息は不明ですが、子孫は秋田家に仕えています。
その始まりがこの時だった可能性は否定出来ません。
第三次湊合戦で檜山城攻めの付城だった、かもしれません
これはどこにも書かれていない、私独自の推測です。
史料に現れない城跡は、一時的に使われた陣跡かもしれません。
「かもしれません」としか書きようがないです



檜山城が戦の舞台になったのは、1589年の第三次湊合戦だけです。
この時は湊安東家が戸沢氏、小野寺氏、南部氏とともに包囲しました。
その期間は8か月にも及び、包囲側の兵力は籠城側の10倍に達しました。
檜山城に近く、本陣を置くにはとても適した場所のように思えます。
大高相模守の居館だった説
大高氏は安部一族で、その子孫である安東氏・秋田氏の重臣です。
三度に及ぶ争いで、安東実季は湊安東家を出羽から追い出しました。
安東実季は秋田介を名乗るために、湊安東家の本拠・土崎城へ移りました。
その後の檜山を治めたのが大高康季でした。
大高康季は1598年に檜山に入り、その居館が茶臼館では?という説です。
秋田家は1602年に常陸へ移されたため、使われたとしても短期間です。
所在地:秋田県能代市檜山越王下 GPSログダウンロードページ
秋田県の城跡/なぽのホームページを表示 |
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