2020/02/26
多賀谷氏館/秋田県能代市
多賀谷氏館は檜山城廃城後に築かれた、城主・多賀谷氏の館です。訪問日は2018年4月14日です。

居館跡への入口が、道端にあります。
とても目立つので、迷うことは無いと思われます。

入口はとても綺麗でしたが、奥へ進むとこんな感じです。
これはちょっとヤバクネ?と思いましたが・・・


笹薮の中の曲がり角を曲がったら、開けてきました。
この奥が館跡です。

段差の所に「表門跡」と書かれていました。
この段差は堀跡でしょうか。
周りはよく見ていませんでした


内部は、まぁ、平らですw

ここは「囲裏門跡」です。
何と読むんだろうとググってみましたが、ココしか出ず。
結局、読み方もどんなものかもわかりませんでした


他に、井戸の跡などもあります。
◆歴史◆
1620年に築かれました。
一国一城令により、檜山城が廃城となりました。
そのため、当時城主だった多賀谷宣家が檜山城の麓に館を築きました。
多賀谷宣家は久保田藩主・佐竹義宣の弟です。
義父の多賀谷重経は、元々は結城家臣でした。
小田原征伐後に徳川家康の子が結城家を継いだ事に反発。
結城家寄りだった嫡男・多賀谷三経を追放し、佐竹家に移りました。
この時に佐竹家当主・佐竹義重の四男・宣家を養子に迎えています。
しかし、朝鮮出兵に非協力的であったため改易され、流浪の身となります。
この時、養子の多賀谷宣家は実家の佐竹家に戻っています。
佐竹家が秋田に移ってからは重臣となり、いくつもの城の城主となります。
その中に檜山城もありました。
その後、亀田藩主が佐竹宗家を継いだ時に、その岩城家を継ぎました。
代わりに多賀谷家は、佐竹一門・戸村義門の次男・隆経が継ぎました。
多賀谷家は久保田藩の家老も排出し、明治まで檜山を拠点としました。
所在地:秋田県能代市檜山霧山 GPSログダウンロードページ
秋田県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント