2020/02/23
御所の陣/大分県国東市
御所の陣は、何にもわからない山城です。訪問日は2020年1月12日です。

御所の陣へは、金湧バス停脇から入る林道を通って行けます。
・・・2回目の登場です。

林道を進み、左カーブの所で直進する未舗装道へ入ります。
狭いボコボコの未舗装道を進んで行くと、こんな廃車があります。
この辺りに車を停められます。

ココで道が分岐しており、北への道を進みます。
訪問した時にはピンクのテープで通せんぼされていました。
見たまんまですが、道の真ん中に木が落ちています。

こちらの道を進むと、今度はバスが捨てられています。
この大きさでココまで来れるんだ!と、ちょっと感動しました。
軽でも恐る恐る走る位に狭い山道でしたので。

このバスからちょっと先に、黄色いプレートが木に括り付けられています。

小さくて目立たないのですが、ちゃんと案内ありました

若干色は違いますが、ここもテプラです。

ただ、入口の案内からどう進めばいいのかが不明確です。
とりあえずですが、案内の所から10メートル程の尾根に直登しました。
尾根上からは西にしか進めませんが、すぐにオープンな山になります。
雰囲気的にはここを歩くのでしょうが、真っすぐ上がりたくもなります。
どーしよっかな?と思っていた所・・・

木に赤いビニールテープが巻かれているのに気付きました。
これが、ココの登城路であることを示す目印です。
目立たないのですが、よーく目を凝らすと見えます。
この赤いテープを順に辿れば、御所の陣まで辿り着けます。

登り始めて5分程で、最初の城跡っぽい溝が現れます。
高低差がそんなに無いので、歩くだけなら掘る必要が感じられません。
左右を分断するための堀切だったのでしょうか?
削平は甘いものの、この辺りも平らではあります。

そのまま進むと、右側が高くなった所が続きます。
この高まりは、何となくですが土塁っぽさがあります。
向こう側に曲輪がある訳ではありませんが・・・
この道?を北側から見えなくする役割かもしれません。

さらに進むと、右側に見えた土塁を掘り下げた虎口があります。
左側の高まりの上には、例のオレンジ色があります


ここもテプラです(*´▽`*)

虎口の内側は、それまでの道からは想像もつかない広さです。
削平もかなりしっかりしています。

虎口から見て左側(南側)には、膝の高さ程の土塁が残っています。

曲輪は東西に細長くなっており、西端からさらに北へと伸びています。
向こう側が見えない位の広さでした。
時間に余裕が無かったので、入口から見ただけで奥まで行っていません。

西端には、さらに西へと進むような虎口もあります。
虎口の向こう側も見たくなり、こちらは少しだけ進みました。

虎口から先の西側にも、見える範囲では2段の曲輪があります。
こちらもかなり広いです。
あと30分あれば。。。と、後ろ髪引かれる思いで城跡を後にしました。
◆歴史◆
不明です

御所の「陣」なので、一時的なものであったのは間違いなさそうです。
世間一般の「もしかしたら」が、1580年に築かれた?説です。
1580年、国東半島では田原親貫の乱がありました。
・・・もともとは義父・田原親宏が起こした乱ですが

田原親貫は、大友家最大の分家である田原家の当主です。
書き始めると長くなるので、ザックリと省略します。
田原親貫の義父・田原親宏が、積年の恨みで1579年に挙兵しました。
しかし、これから府中へ攻め込もうという時に、田原親宏が急死しました。
田原親貫は毛利家、秋月家から援軍の約束を取り付け、佐野鞍懸城に籠城。
大友親家・柴田礼能が小門牟礼城に入り、佐野鞍懸城を攻めました。
御所の陣は、小門牟礼城の東側の背後にあります。
「御所」という名から、大友宗麟がここに居た?のかもしれません。
謀反は大友軍が鎮圧し、田原親貫は行方知れずとなります。
もしかしたら2
完全に勝手な想像です。
「御所」という名前から、皇室関係者を連想しました。
そうなると、九州では征西将軍・懐良親王が思い浮かびます。
懐良親王は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の皇子です。
伊予を経て1341年、薩摩の谷山城を拠点に島津氏と争います。
その後、肥後の菊池武光に迎えられ、1359年に筑後川の戦で北朝軍に大勝。
大友氏泰はともに戦った少弐頼尚を匿い、何度も南朝軍に攻められます。
大友家は嫡男が南朝方、次男が北朝方となり分裂してしまいました。
1361年には大宰府を制圧するに至り、九州の南朝勢力は最盛期を迎えます。
九州で覇権を握った懐良親王は、1368年、上洛するため東征を開始します。
九州の主だった大名が名を連ね、兵力は7万人だったとされます。
私は、この時に親王がココに陣を敷いたのかな?と想像しました。
東征軍は制海権を掌握しきれず、中国地方の雄・大内弘世に海戦で大敗。
九州探題・今川了俊の反撃などもあり、南朝方は衰退し始めました。
所在地:大分県国東市国東町成仏 GPSログダウンロードページ
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