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壬生城/栃木県壬生町

壬生城跡は壬生城址公園となっています。
訪問日は2011年7月16日です。

壬生城/堀
▲近代的過ぎる堀

行く前に色々調べてわくわくしながら訪問した壬生城。Google Mapでは堀の形がはっきり見え、水堀に映える石垣。期待に胸を膨らませていました・・・現地に行くまではあせる

壬生城/噴水
▲噴水

実際に見て"あらあら・・・"とかなりガッカリ。「復元した」石垣や堀は完全に現代モノ。妙に立派に盛られた土塁。そして、本丸中央に鎮座する噴水。戦国時代にあったならとても貴重なのですがwww

壬生城/公園案内図
▲公園の案内板

"どこかに遺構残ってないか~"と飢えた眼差しで案内板を見ますが・・・開発され尽くした街中に「それっぽいものがあるだけマシか」とトドメを刺された気分に。

壬生城/説明板
▲説明板

それでも諦め切れずに公園の中をさまよって、1枚の説明板を見つけました。そこにはかつての神々しい「整備される前」の空堀の写真が合格最後の一文は突っ込み所満載ですがw

壬生城/土塁
▲土塁

開発の波に呑まれ、それっぽく「復元」された城、というだけでは面白くないので・・・ちゃんとしたっぽい土塁の写真で〆ます。


◆歴史◆

今はコンクリートでがっちり固められた城跡ですが、過去の歴史はしっかりしてます^^

壬生氏は綱重の父・胤業を祖とします。その出自には諸説あり、都の地下官人・小槻氏説や毛野氏説、宇都宮氏庶流説があります。壬生胤業は武芸を好み、諸国流浪の末1462年に下野国で壬生姓を名乗り土着しました。

そして子の綱重が文明年間(1469~86年の間)に壬生城を築き、宇都宮氏に仕えました。綱重は宇都宮家中で一気に重臣となり、宇都宮忠綱の命で鹿沼氏を攻め滅ぼしました。鹿沼の地を与えられた綱重は、居城を鹿沼城に移しました。

<戦国時代>

3代目・壬生綱房の代から壬生氏は激動の時代を迎えます。

1470年代から1510年代にかけて、宇都宮家中は芳賀氏が実権を握っていました。1512年に宇都宮忠綱は芳賀高勝を殺害し、実権を取り戻しました。ここからの宇都宮錯乱と呼ばれる泥沼の中、壬生氏は宇都宮氏側として行動します。

ここからゴタゴタがありますが・・・色々あり過ぎるので省きますw

1541年に宇都宮尚綱とともに芳賀高経を滅ぼすと、壬生氏は宇都宮家中一の重臣となります。しかし1549年、宇都宮尚綱が討死すると、壬生綱房は宇都宮城を乗っ取りました。壬生氏は下克上を果たし、以後主家・宇都宮氏と対立します。

1555年、壬生綱房が急死しました。宇都宮城を共同統治していた芳賀高照も同年、芳賀高定に謀殺されています。芳賀高定は宇都宮尚綱が他家から芳賀氏の家督を継がせた人物です。

ここから宇都宮氏の逆襲が始まります。1557年には佐竹氏の援軍を得て宇都宮城を奪還。壬生綱雄は鹿沼城へ退きました。壬生氏はこの頃から後北条氏に接近するようになりました。

1576年、芳賀高定により壬生綱雄が鹿沼城内で暗殺されました。この暗殺劇には宇都宮氏寄りだった綱房の弟で叔父の壬生周長が絡んでいました。壬生氏もまた後北条派と宇都宮派に分裂していたのでした。

壬生綱雄の嫡男・義雄は壬生周長に従わなかったため、壬生城へ攻め寄せてきました。この時の戦いで壬生義雄は周長軍に大勝し、周長を討ち取りました。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際は、後北条方として小田原城に籠城しました。壬生義雄は討死せずに乗り切ったのですが、戦後間もなく急死しました。これは皆川広照により毒殺されたという説があります。皆川氏は後北条氏、宇都宮氏、結城氏、佐竹氏、そして壬生氏に囲まれて散々苦労しました。積年の恨みが爆発したのでしょうね・・・

壬生義雄には娘が一人いるだけで跡継ぎが居なかったため、所領は全て没収されました。戦後、壬生氏の領地は結城氏の家督を継いだ徳川家康の次男・結城秀康に与えられました。

1600年、関ヶ原の戦いで結城秀康は、背後の上杉軍を牽制するため留守を命じられました。そして翌年、戦功第一として50万石以上加増され、越前へ移りました。

1602年、信濃国高島より日根野吉明が19,000で入封しました。

<江戸時代>

江戸時代前半はめまぐるしく城主が入れ替わりました。

1635年、武蔵国より阿部忠秋が25,000石で入封
1639年、下総国矢作より三浦正次が25,000で入封
1692年、松平輝貞が32,000石で入封
1695年、近江国水口より加藤明英が25,000石で入封
1712年、近江国水口より鳥居忠英が30,000で入封

鳥居氏は明治まで続きました。

江戸時代の壬生城は天守や櫓は無く、簡素な造りだったそうです。本丸には御殿があり、将軍の日光参りの宿舎となりました。

<明治時代・戊辰戦争>

1868年、戊辰戦争では壬生でも戦いがありました。

5月11日、幕府軍の攻撃により宇都宮城が陥落しました。これは無理に城を死守するよりも、援軍を待って奪還する方が有利と判断したからでした。

5月12日、新政府軍の河田佐久馬隊が壬生城に入りました。河田隊は宇都宮と壬生を結ぶ道を封鎖するため、安塚の姿川淀橋付近に陣を張りました。

宇都宮城を占拠していた幕府軍は、5月14日に安塚陣地に総攻撃をかけました。幕府軍は一時は安塚を占拠ましたが、河田佐久馬自らが出撃すると姿川対岸に撤退しました。ここで新政府軍の救援軍が壬生城に接近したため、幕府軍は宇都宮城へ撤退しました。

5月15日、援軍の到着した新政府軍は壬生城を出発し、宇都宮城へ向かいました。攻城戦は熾烈を極め、幕府軍側の土方歳三も足に銃弾を受けるほどでした。幕府軍は更に土佐藩兵や伊地知正治隊も加わり、幕府軍は日光に向けて撤退しました。

<廃城>

1871(明治4)年8月29日、廃藩置県が行われました。この時廃城となり、壬生城は入札で払い下げられました。城門は鹿沼市や小山市の民家に移築されて現存しているようです。城地は開発され、現在残っているのは本丸の一部だけです。

けちょんけちょんに書いたのですが、やっぱり歴史は面白いですね^^・・・これでも相当ザックリですw


所在地:栃木県下都賀郡壬生町本丸(壬生城址公園)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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