2020/02/22
成仏城/大分県国東市
成仏城は国東半島の山中にあった、意外に凄いお城でした。訪問日は2020年1月12日です。

成仏城は、両子山の北東約1kmの所にありました。
その入口がココ、林道の切通しです。

地図ではココですが、本当にココ?と少し不安でした。
しかし、カーブミラーにこれがあったお陰で確信出来ました


カーブミラーから見た、ガードレールの外側です。
入口とはいうものの、既にここから???です

城キチの心の目で見えた道を進むと・・・

ピンクのテープがありました!
何となくですが、正解でした(*´▽`*)
でも、心の目で見えた道も、ここで行き止まりでした。

今度は心の目というよりも例の黒いヤツは、こっちだと呟きます

相変わらず、人の体を何だと思っているのやら┐(´∀`)┌

でも、例の黒いヤツは、伊達に真っ黒ではありませんでした。
何となくそれっぽい感じがしてきました


緩やかな斜面を登っていると、ちょっとした窪みがありました。
屋山城では堀切と呼んでいたレベルではあります。

しばらくは細長い平坦面が続きます。
私が事前に想像していたのはこんな規模でしたが・・・
先の方に大きな堀切様、見えますよね?

そこそこの規模の堀切様が待ち構えていました。
手前からの深さは2メートル程で、先の方が高くなっています。
ということは、奥の方がより高位の曲輪という事になります。

まぁ、見たまんまですけどw
切岸は石垣ではないものの、それっぽく見えます。

高い方から見た堀切です。
土塁は無いので、割とすぐに登れてしまいそうです。

堀切の先の高い所は、想像を遥かに越える広さでした。
ここの中央部に、例のオレンジ色のプレートがあります。

プラスチックの手のひらサイズですが、雑木林では目立ちます。
ちょっとだけチープな感じですが、有ると無いとでは大違いです。
今更ですが、テプラ貼ってるんですね




広い主郭の先端部まで来ると、段になった腰曲輪が見えます。

途中の段は、幅はそれほど無くほっそりしています。

しかし、一番下の段は、主郭側が横堀となっています。

横堀の外側は、幅広の土塁というよりも曲輪ですね!

この下には、かなり広い曲輪が広がっています。
山中にこんなに広い場所があるのかと驚きます。

この平坦面の奥から見た主郭側です。
一番下の段の腰曲輪で、先が見えなくなっています。
もしかしたら、横堀部分に弓や鉄砲を持った兵が隠れていたのかも。
そう思うと、寄せ手の心情としては一気に駆け上がるのを躊躇します。
こうして広く平坦にしたのも、遠隔攻撃のためかもしれません。

一番奥からは、下へと続く広い尾根が続いています。
地図で見ると、すぐ北東に広い平坦地があります。
国土地理院の地図だと、田んぼマークが広がっています。
その田園集落の上に位置するのが、このお城のようです。
◆歴史◆
不明です

堀切は深くて鋭く、横堀や土塁もしっかりしています。
なので、戦国時代に築かれたものだと思われます。
構造は東側に備えた造りになっています。
東側には、田原氏の本拠地・飯塚城がありました。
そして、背後の西側には六郷満山があります。
六郷満山のトップが吉弘氏です。
吉弘氏の本拠である屋山城も西側です。
両氏が直接争ったという話は聞きませんが・・・
田原氏は代々大友家に反抗的でした。
吉弘氏は田原氏の庶流ですが、1435年頃屋山城に移されました。
六郷満山のトップに吉弘氏が据えられた理由。
もしかしたら、田原氏の牽制だったのかもしれませんね。
所在地:大分県国東市国東町成仏 GPSログダウンロードページ
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