2020/02/21
屋山城/大分県豊後高田市
屋山城は大友家の重臣・吉弘氏の城でした。訪問日は2020年1月12日です。

屋山城へ行くには、長安寺が目印になります。
お寺の案内はかなり遠くからあり、迷わず辿り着けます。
到着すると、お寺と共用の駐車場があります


車は進入不可とあるので歩きますが、車で登りたくなる道です。
この道をひたすら「道なり」に進みます。
案内がある所では、そっちへ進みます。

なんで車は通っちゃいけないんだろう?と思いながら歩きました。
道は次第に荒れてきて、落石や倒木などが目立つようになります。
車が安全に通れるよう保つには、それなりに費用と手間が掛かりそうです。

この道の突き当りは、横一線にフェンスがある展望台っぽくなっています。
その左脇に、私の大好物が鎮座しています




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その正体がコレです。
屋山城は、細長い山の頂上を堀切で分断した連郭式です。
主郭の両脇を堀切2本で分断し、登り口には竪堀が配置されています。
この感じ、大友家の詰城だった高崎城と同じ構造ですね!

登り始めは、岩だらけの尾根を登ります。
傾斜がキツく、虎ロープが渡されています。
これだけでも自然の防御になり得ています。

岩ゴツゴツエリアを越えると、真っすぐな坂道に変わります。
これはこれで上が見える分、ちょっとメンタルに来ますw
実はこの坂道、ただの坂道ではありません。

左右の両脇に、こんな感じで竪堀が並走しています。
その長さ、おおよそ100メートルです。
攻め込んだ寄せ手は、この急坂を真っすぐにしか登れません。

急坂の上には、数段になった曲輪があります。
ここで坂を登って来た敵を迎え撃つ感じです。
手前に堀切を入れないのは、敢えて進ませるためでしょうか?
堀切があるとひと息入れたり、後続を待ったりしますからね。

この曲輪の下端はボコボコになっています。
鳥観図では「花弁型竪堀」と描かれています。
徹底的に横移動を阻み、各個撃破に特化した感じです。

再び木々が濃くなり、まっすぐな一本道になります。
ただ、先ほどと違うのは、ここは既に城内だという事です。

左側は急斜面ですが、右側はこんな感じで曲輪となっています。
あまりに総面積が広いせいか、殆どの曲輪は雑木林のままです


そのまま真っすぐ進むと、堀切が現れます

ビミョーな傾斜が続く中では、これが精いっぱいの防御なのかも。

そんなに規模は大きくありませんが、しっかり掘られています。
しかし、ここは城内。
真ん中にはちゃんと土橋があります。

堀切を過ぎると、間もなく主郭に到着します。
ここには小さな祠と、山頂のプレートがあります(*´▽`*)

でも、それで帰ってはいけません。
もうちょっと奥へ進むと、石で組まれた灯籠があります。
お城の石垣と同じ組み方で、こんなの初めて見ました


石灯籠の先にも曲輪が続きます。

だんだんと平坦面は細くなり、地面が少し窪んでいます。
普段なら気づかずスルーしそうですが、これが奥の堀切です。

真横から見ると、この通り窪んでいます。
木々に覆われていないなので、長年の風雨で埋もれたのでしょうか?

その先に再び曲輪があり、ここに城址碑があります。
主郭に無いのが?ですが、折角だからココまで来て!という事かも。

ここから先は、長い下り坂となっています。
◆歴史◆
大友一門・吉弘氏の城でした。
吉弘氏は大友一門・田原氏の庶流です。
元々は国東半島東部の武蔵地域にある吉広城を本拠としていました。
1435年にあった姫嶽合戦の頃から、都甲地区に移ったとされます。
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※姫嶽合戦
1431年、大友持直が少弐満貞とともに大内盛見を討ち取りました。
その結果室町幕府から討伐を受け、大友持直は姫嶽城(臼杵市)に籠城。
姫嶽城は落城し、大友持直は消息不明となりました。
この時に大友家中が幕府方と反幕府方に分裂しました。
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その目的は、六郷満山の頂点・長安寺の掌握です。
六郷満山とは「国東半島にある6つの郷の寺院全て」という意味です。
吉弘綱重は大友親綱に従っていました。
大友持直に従った都甲氏が没落し、その領地を与えられたようです。
1437年に長安寺に対して発した『吉弘綱重安堵状』が残っています。
以後、吉弘氏が代々長安寺の別当職を務めて支配下に収めました。
築城年代は諸説あり、1530年代と考えられています。
築城者は吉弘親信またはその子・吉弘氏直のどちらかと考えられています。
この時代は、大内軍と豊前を巡り激しく争っていました。
吉弘親信は1532年、吉弘氏直は1534年に大内軍との戦で戦死しています。
1579年、吉弘統幸が大改修を行いました。
1578年、耳川の戦で吉弘鎮信が戦死し、吉弘統幸が家督を継ぎました。
その直後に、国東半島で田原親宏が挙兵するという大事件が起きます。
吉弘統幸は田原軍と対峙するため、屋山城に大改修を加えました。
田原親宏は出陣直前に急死したものの、田原親貫が謀反を継続しました。
この謀反の鎮圧で吉弘統幸は活躍し、朝鮮出兵では朱槍を許されました。
しかし1593年、大友義統が敵前逃亡で改易され、領地を失いました。
吉弘統幸は、従兄弟の立花宗茂(父の弟・高橋紹運の子)に仕えました。
1600年、黒田軍に攻め落とされました。
関ヶ原の戦で、大友義統は伊豆を抜け出して豊後に上陸しました。
これは、豊臣方から大名として再興すると約束されたからでした。
合流した吉弘統幸は東軍につくよう説得しましたが、却下されます。
それでも行動を共にし、集まった大友旧臣を指揮します。
この動きに反応したのが黒田如水で、別府市の石垣原で戦となりました。
吉弘統幸と宗像鎮続が指揮する大友軍は、一時は黒田軍を圧倒しました。
しかし、兵力差は覆らず、両名とも討ち取られました。
大友義統は黒田軍に降伏し、大友家再興の戦は終わりました。
その後、大友軍の残党が屋山城に立て籠もりました。
そのため、黒田軍に攻め落とされました。
すぐ下にある長安寺も、巻き添えを食って焼かれてしまいました。
以後、屋山城は城として使われる事は無かったと思われます。
所在地:大分県豊後高田市加礼川 GPSログダウンロードページ
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