2020/02/22
蕗政所/大分県豊後高田市
蕗政所は、超有名な富貴寺のすぐ近くにありました。訪問日は2020年1月12日です。

蕗政所は富貴寺のすぐ近くにあります。
富貴寺も石垣がしっかり組まれていて、まるでお城のようです。

駐車場から西へ200メートルちょっと進むと、この案内があります。

その反対側に、こんな風に入って行く道があります。
この道を上がって行きます。

そのまま道なりに進むと、こんな山道になります。
位置的にもこの辺で山に入りたい!という所でした。

途中で山道が分岐しますが、高い方へ進む左へ。

途中、虎口っぽい所を通ります


山道は谷間っぽい所を渡り、さらに上へと続きます。

もうすぐ登り切ろうかという所で、右の方に二重の堀切が見えます


1つ目の堀切です。
深さは2メートル強、長さは10メートル程です。

そのすぐ先に、同じくらいの堀切があります。
こうやって横から撮ってますが、堀切の脇を普通に進めてます。
これでは堀切の意味が無くなっちゃいそうです


2つ目の堀切を越えた所に、人の背ほどの土塁があります。
堀切の奥にあり、こっちが守りたい曲輪側という事になります。

その曲輪ですが、10メートルあるかないか四方の小さなものです。
建物があったとしても、小屋程度しか建てられそうにありません。

先端から土塁・堀切方向を撮りました。
やっぱり狭いです


単郭らしいのですが、下は2段ほど帯曲輪っぽくなっています。
◆歴史◆
武家方の田染荘政所だったと考えられています。
田染荘は元々は宇佐神宮領で、大宮司の分家・田染氏が居ました。
田染栄忠は分家の出身ながら、宇佐神宮の大宮司になった人物です。
1483年以降、田染氏が明治に至るまで代々大宮司職を継承します。
田染荘政所は、豊後守護の出先機関として訴訟を受け持ったようです。
田染栄忠は田染定基の孫の孫ですが、当時の田染家は絶望的な状況でした。
鎌倉幕府滅亡後、建武の新政が崩壊し宮方と武家方が対立しました。
田染定基が武家寄りだった事が問題となり、領地が没収されます。
その領地の大半は、田部氏女に知行されました。
一方、田染定基の孫娘が有力神官・永弘重輔に嫁ぎました。
永弘重輔は子の栄重に、妻・田染性玄の田染荘の領地を譲渡。
田染栄重は実家の永弘家と親密な関係を続け、田部氏女と対抗します。
田部氏女は1350年、養子の香志田内重に領地を継承。
田染荘では、永弘系田染氏と香志田系田染氏の争いが続きました。
彼らの争いに直接関与しなかったと思いますが・・・
その領地の安堵状を発行していたのが、田染荘政所です。
初代は曾禰崎氏で、田原氏、吉弘氏、古庄氏らが務めました。
1518年に乱を起こした朽網親満は、田染荘政所・古庄氏の上司でした。
古庄治重父子は謀反の疑いにより、1516年8月に府内に収監されました。
しかし隙を見つけて脱出し、向かった先が宇佐の永弘氏輔の館でした。
こうして調べてみると、色々と繋がるもんですねw
この年代の大友家は、豊前の守護である大内家と争っていました。
この出来事から、宇佐神宮が大内家寄りだったのか?と推察されます。
妄想が連鎖すると遠くへ行っちゃいそうなので、この辺で止めます

所在地:大分県豊後高田市田染蕗 GPSログダウンロードページ
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