2020/02/20
佐野鞍懸城/大分県豊後高田市
佐野鞍懸城は、山中に忘れ去られた総石垣のお城です。訪問日は2020年1月12日です。

「鞍懸城」はこの地域では奥畑と佐野の2つがあったそうです。
そのため、両者を区別するため頭に「佐野」をくっつけています。
城跡へは、路肩が広い所から入る道から行けます。
その突き当りがココで、お墓参り用に駐車出来るようになっています。

すぐ近くに山中へ入って行く道がありますが、ココはNGです。
私はここから登り、1つ北の山中を彷徨いました


城跡へ行くわかりやすい入口は、林道を少し戻ったココです。
道から奥へ、長い横堀が続いています。

横堀は、100メートル程奥へ進むと倒れた竹で覆われています。
右側に石が並んだ所があり、ちょっと居館跡っぽい所があります。
そこから山中へ入ってまっすぐ登ります。

ルートとしてはわかりやすいですが、ちょっと竹が多いです。
とりあえず、高みを目指してまっすぐ登ります。

登り切ると、かなり広い平坦面が広がります。
ここは曲輪?なんて思いますが、1つ北の山もこんな感じでした。
登ってきた方向から見て、城跡へは右に進みます。

スンスン進むと、奥に石垣が見えてきます。
手前には石が縦に2列並び、その両脇が浅く窪んでいます。
堀切と土橋があったような感じです。

石垣は大分らしく、平らな石の野面積みです。
割合的には7割くらいは崩れずに残っています。

2郭外周西側の石垣です。
高さは3メートル弱くらいあります。

南端は断崖ですが、2郭の石垣も崩れ気味です。
そこから2郭に上がると、端に石塁が見られます。

主郭は2郭よりも一段高くなっています。
段差はあるのですが、石垣らしい石垣はあまり見られません。

主郭の北東側に、直角に曲がっている石垣があります。
ここが枡形虎口の跡のようです。

その足元には、2郭の外へ向かうように石が並んでいます。
◆歴史◆
築城時期は不明です。
この辺りは河内地区というようですが、「鞍懸城」が2つあります。
そのため、それぞれの地名を頭につけて両者を区別しています。
もう1つの奥畑鞍懸城が先だったと考えられています。
戦国時代には田原親宏が城番となり、大内家との戦で活躍しました。
1580年、田原親貫が立て籠もりました。
1579年、田原親宏は耳川の戦の後、大友宗麟に2つの要求をしました。
1つは領地返還で、大友家は田原氏を警戒し領地の大半を没収していました。
その領地を、分家である武蔵田原家の田原親賢に与えていました。
田原親賢は大友宗麟の正室の兄か弟で、大友宗麟の寵愛を受けていました。
もう1つは、養子縁組の破談です。
これも田原親賢が絡んでいて、田原宗家の乗っ取りを企んだものでした。
田原親宏には男子が無く、大友宗麟の次男・親家に継がせようとしました。
大友家中は実力者の反発に大騒ぎとなり、養子縁組を取りやめました。
しかし、田原親宏は挙兵しました。
そして、これから府内へ攻め込もうとした矢先に田原親宏が急死します。
そのため、田原家中の総意で娘婿の田原親貫が田原宗家を継ぎました。
田原親貫は当時まだ10代後半の若武者だったそうですが・・・
毛利家と秋月家に対して、援軍の約束を取り付けていました。
この手配をした如法寺親並は、田原姓の名乗りを許されています。
田原軍は本拠の安岐城と佐野鞍懸城に籠城し、大友軍を迎え撃ちました。
安岐城は海岸沿いにあり、毛利水軍から補給を受けていました。
しかし、大友家の水軍の将・若林鎮興が撃退したため孤立します。
そして、1580年8月には大友軍により攻め落とされました。
残った佐野鞍懸城も、豊前の城井氏や長野氏が大友軍に阻まれ孤立。
1580年10月に激戦の末落城しました。
田原親貫の消息がわからなくなり、しばらく捜索が続いたそうです。
その後の佐野鞍懸城
・・・わかりません

総石垣なので、黒田家か細川家に整備された説もあります。
ただ、崩れた石垣には破城の形跡が見られます。
田原親貫が乱の直前に改修し、落城により廃城になったのかもしれません。
所在地:大分県豊後高田市佐野東部 GPSログダウンロードページ
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