2020/02/19
高田城/大分県豊後高田市
高田城は水堀がよく残る平城です。訪問日は2020年1月12日です。

本丸跡付近にある中央公民館が、車を停められます。
常に開いているので、朝駆けしても大丈夫でした


駐車場を出ると、すぐに階段があります。
この階段は要チェックです


左側の石垣が江戸時代、石段は鎌倉時代からのもの、らしいです。
石の遺構はここだけかもしれません。

堀跡はかなり広範囲に残っています。
先に見たのは外堀跡で、東から北にかけて見られます。
ここは東側の大手門跡付近で、西に向かって折れている所です。

大手門跡付近は浅くて水がありませんが、東側は水があります。

ここは外堀の北東部分で、ここで西に向かって折れます。
堀自体はかなり長く残っていますが、堀の外側に住宅が並びます。
堀→家→道なので、堀を見られる場所は限られます。

本丸の跡には桂陽小学校があります。
内堀は、小学校の北側に沿ってあります。

ただし、ここも堀に沿って家が並んでいます。
家と家の間から水堀は見えますが、堀沿いには行けず。
堀に近い道を辿り、ようやく見えたのが北西部分です。
住宅街から小学校脇を抜ける道で、堀を渡る所でしか見られません。

上の写真の反対側です。
こちらはコンクリートに覆われています。
辛うじて堀があった?と感じられる程度になっています

◆歴史◆
ググってもほぼ何も出て来ないので、某家伝様をなぞります。
高田氏の居館として始まりました。
高田氏は大友氏初代・大友能直とともに豊後に来たとされます。
大友能直は平安時代末から鎌倉時代初期の人物です。
『吾妻鏡』では、源頼朝の大のお気に入りと記されているそうです。
大友能直は豊後にはほんの少し居ただけで、京と鎌倉を往来していました。
確かに豊後を与えられた時に従って来た、という事はありそうです。
しかし、鎌倉時代の『豊後国図田帳』に、高田氏の名が見られず・・・
227町が寺社領、29町が大友能泰、残り5町が小田原頼景だそうです。
鎌倉時代の高田氏については?です

高田氏の名が現れるのは、鎌倉時代末になってからです。
高田定祐が大友貞宗に従い、1333年の博多合戦で戦死しています。
大友貞宗は後に討幕方となりますが、この時は鎮西探題の味方でした。
子の高田為雄は大友氏泰に従い、新田氏や菊池氏と戦っています。
孫の高田定義も父同様、菊池軍との戦いに参加しています。
遅くともこの頃には、と思います。
大友家が改易されるまで
高田氏は、地理的な関係で大内家との豊前での戦で活躍しました。
島津軍が侵攻した際も投降せず、木付城を死守。
国東半島に島津軍を入れさせませんでした。
1593年、大友家が改易され、高田正孝も領地を失いました。
没落後は高田邑浜で暮らし、1603年に没したそうです。
1594年、竹中重利が城主となりました。
大友家が改易された後、大友家旧領は細分化されました。
豊後高田は、竹中重利が1万3千石の領主となり城を拡張しました。
関ヶ原の戦では当初は西軍だったものの、黒田如水に誘われ東軍に鞍替え。
戦後、2万石に加増され、府内へ移っています。
1632年までは小倉藩・細川家の城でした。
1601年、豊前は細川忠興の領地となり、高田も小倉藩領となりました。
城主が誰なのか?ですが、中津城主の管轄だったようです。
その後、1615年に一国一城令により、城としては廃城となっています。
1639年、高田藩の藩庁となりました。
能見松平家の松平重直が豊前・龍王藩主となりました。
高田の地も龍王藩の領地に含まれていました。
松平重直はその後、1639年に高田城跡に陣屋を構え高田藩と改称しました。
1645年、廃藩となり島原藩の飛び地となります。
高田藩2代藩主・松平英親が杵築藩へ移り、高田藩は廃藩となりました。
高田の地は島原藩の飛び地となり、城跡に豊州陣屋が置かれました。
島原藩による統治は、1871年の廃藩置県まで続きました。
城跡は翌年には桂陽学校となり、現在の桂陽小学校へと続きます。
所在地:大分県豊後高田市下町
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