2020/02/18
鹿鳴越城/大分県日出町
鹿鳴越城は、大友領北端の豊前街道を押さえるためのお城でした。訪問日は2020年1月1日と1月11日です。

鹿鳴越城には2回行きました。
それは、1回目のルートは皆様に紹介出来ないと思ったからです。
1回目は、諸兄が紹介されている北側の農道から行こうとしました。
この道の途中、真ん中に赤と緑の何かがぶら下がっています。
そこには「ペンチで切ってまで入道する用事があるのか」とあります。
どうやらここは私道で、あまり通って欲しくない雰囲気です。
歩きで進んでも、道の主はきっと気分を害するに違いありません。

じゃぁ、東側の道から行くか!となり、その北側の入口へ移動。

入口あったあった(*´▽`*)と進みましたが・・・
割とすぐに道は無くなり、イバラ混じりの過酷な藪となりました

地図には描かれているものの、道はすでに消滅しています。
それでも藪を突っ切って進んだ私って、きっと何かが凄いです。
帰宅後ネットで調べたら、山キチ様達も鹿鳴越城を訪ねています。
そのルートが、城キチルートとは反対の南から登る殿様道でした。
こっちなら誰でも正々堂々通れる!という事で再訪問しました。

前置きが長くなりましたが、ココが殿様道の入口です。
目印は日出殉教公園で、そこからまっすぐ北に進んだ所です。
ココで回れ右をすると、ソーラーパネルが沢山並んでいます。

さすがは殿様道というだけあって、大部分は歩きやすくなっています。
所々雨水で流されてゴツゴツと荒れた所もありますが・・・
国道10号線に役割を譲るまでは、ここがメイン街道だっただけあります。

30分程で、東鹿鳴越峠に辿り着きます。
山キチ様達は、もれなくここで右へ曲がって百合野山へ行きます。
でも、私は城キチなので、ここはまっすぐ進みます(`・ω・´)

300メートル程進むと、左手に道が分岐します。
その入口右手には「鹿鳴越城址」と書かれた白いプレートがあります。
鹿鳴越城唯一の案内です


この道も綺麗に整備されており、藪掻きは一切ありません。
元日早々、尾根伝いに道無き雑木林を登ったのが嘘のようです。

緩~い坂をズンズン進むと、殿様道の案内が現れます。
その10メートル先に、石塁を渡した堀切が現れます

この石塁は城郭遺構ではなく、しし垣だと考えられています。
※しし垣は、鹿や猪の侵入を防ぐための石垣や土塁です

少しだけUターンし、古城山方向へ進みます♪
ここから先は、1回目にも通りました。
ゴールは目の前ですけど


山道から右側の稜線を見上げると、すぐに堀切が1本現れます。
1回目はここから堀切を登り、城跡方向へ進みました。
この堀切から先が、鹿鳴越城の二郭です。
ただ、曲輪としては削平もなく、ただ細い尾根が続くだけです。
ココの次は超巨大二重堀切まで見所がありません。
歩きやすい山道を歩いた方がよろしいかと思います。

山道沿いには、もしかしたら竪堀かもしれない溝が沢山見られます。
私は竪堀を見分けるのが下手なので、もっとあったかもしれません


山道を水平に進むと、地形がザックリした所に出ます。
ココが超巨大二重堀切です。

真ん中の仕切りの奥にもう1条あり、こちらは木々が茂っています。

木が多いので、普通のカメラでは二重である様子が撮れません。
ここで奥義・iPhone様パノラマ写真の出陣です。
頼りになります


超巨大二重堀切を越えたら、主郭はもう目の前です。
入っていく道は無いので、ロープに掴まりながら登ります。

登った所が主郭の下段です。

下段は、上段の周りを帯曲輪のように囲んでいます。

上段には、山頂を示すこいつがあります。
古城山は「こじょうのやま」と読むんですね!

南側は木が伐採され、眺望がきくようになっています。
丸く見える海が別府湾です。
殿様道の入口から片道2.6km、比高は約330mです。
所要時間は登りが50分、下りは35分でした。
◆歴史◆
文明年間(1469-87年)に大友親繁により築かれたとされます。

この年代は、一族どうしの争いが多いので頭が混乱します。
という事で、大友家と複雑に絡んだ大内家の相関図を並べます。
対照的なのは、大友家では兄弟どうしの争いが続いている事です。
大内家は統一され、将軍にそそのかされた大内教幸だけが対立勢力です。
鹿鳴越城が築かれたのはこの頃です。
大内教幸はかつて、大内持世に反抗していた時期がありました。
そのため討伐され、戦に飽きた大内教幸は出家し道頓と号しました。
以後は弟の大内教弘と和睦し、良き指南役となっていました。
しかし、大内政弘が応仁の乱で西軍として上洛すると調略されます。
将軍・足利義政が、道頓こそ大内家当主だとそそのかします。
そして、大友親繁と協力して大内政弘の討伐を命じました。
1470年2月に道頓は挙兵、1471年末に鎮圧され豊前へ逃れました。
豊前で抵抗を続ける道頓に対し、将軍から停戦命令が出たのが1476年です。
鹿鳴越城は、大内軍が豊後へ侵入するのを防ぐために築かれたようです。
田北親幸や渡辺氏、新辺氏、河内氏などが城番を務めました。

それからしばらくの両家のザックリした関係です。
和戦織り交ぜながら、北九州を巡る攻防が続きました。
1534年4月、すぐ北で勢場ヶ原の戦がありました。
勢場ヶ原の戦は、大友家と大内家の間では最大級の戦だったとされます。
大内義隆は九州では豊前・筑前・筑後・肥前4ヵ国の守護でした。
しかし、反大内勢力に大友家が支援するため、統治に苦労しました。
そのため、大内義隆は大友義鑑を討ちに出ます。
1534年、重臣・陶興房を大将とする3000の兵力で豊後へ侵攻。
大友義鑑も吉弘氏直、寒田親将を大将に2800の兵力で迎え撃ちました。
大友軍は大村山に本陣を置き、地蔵峠と立石峠、鹿鳴越峠も押さえました。
大内軍はこれらの状況を把握し、大村山を集中攻撃します。
大友軍の大将・吉弘氏直は自軍が優勢と、自ら先陣を切ります。
しかし、乗馬に矢が当たり、落馬した所を討ち取られてしまいます。
その後、大友軍は別動隊が合流し反撃に転じます。
大内軍は緒戦の優勢に油断し、大将の陶興房も負傷するなど苦戦。
両軍痛み分けとなり、大内軍は退却しました。
その後、1538年に将軍・足利義晴の命令により和睦しました。
1586年、大友義統が豊前へ逃亡しました。
島津軍が豊後へ侵攻し、大友家臣の投降が相次ぎました。
激しく抵抗し続けたのは、臼杵城、岡城、栂牟礼城など少数でした。
そんな中、大友家当主の大友義統は府内の詰城の高崎城に居ました。
父・大友宗麟の要請していた豊臣軍がようやく到着。
戸次川に布陣すると、島津家久の軍勢と激突しました。
この戦は、仙石秀久がそのまま讃岐へ逃げるなど豊臣軍が大敗します。
すると、大友義統は戦わずして豊前へと逃げ始めました。
この時、鹿鳴越城から狼煙を上げて合図していたそうです。
島津軍から逃れた大友義統は、豊前の龍王城に入っています。
大友義統はこの7年後、朝鮮半島でも敵前逃亡をしました。
この時は流石に許されず、改易処分となっています。
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