2020/02/16
高崎城/大分市
高崎城は、サル山として有名な高崎山の山頂にあったお城です。訪問日は2019年12月31日です。

県道51号の銭瓶峠付近から林道高崎線へ。
ヘアピンカーブを曲がると、このゲートが現れます。
獣避けフェンスなので、開けたら閉めるのをお忘れなく。
この中が駐車場です。

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駐車場には簡単な案内図があります。
とは言っても一本道ですが

城跡に行ける!という安心感はくれますw

登城開始!
ここからは徒歩です。
フェンス脇から遊歩道があります。

登城開始から17分後
しばらく登ると、地面に何かの説明が書かれたオブジェがありました。

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オブジェは旧登山道に関するものでした。
説明文によると、この道が高崎城の大手道だったそうです。
ただ、傾斜がきつく落石もあるため、新登山道を勧めています。

こちらが旧登山道の登城路です。
通る人が少ないためか、草に覆われた印象があります。
ただ、それは入口付近だけです。
帰りはこちらから下りましたが、新しい道より傾斜がキツイだけでした。

登城開始から20分後
新しい方の登山道をさらに進むと、歴史が書かれた説明板がありました。

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ここに載っている図が、色んなサイト様で引用されています。
全体像を掴むにはとてもわかりやすくなっています。

登城開始から22分後
さらに進むと、今度は竪堀についての説明オブジェがありました。

ここからしばらくは、山側にいくつも竪堀の標示があります。
私は竪堀を見付けるのが苦手で、あると言われても???です。
こうやって案内を付けてくれると、鈍感な私でもわかります


登城開始から25分後
竪堀群を過ぎると、今度はお城の構造についての説明板です。
次から次に説明板が現れ、歩いていて楽しくなります♪

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説明板ごとに描かれ方の異なる図があるのもイイですね!

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この説明板には、2枚も図が載っています。

登城開始から29分後
緩やかな登山道をスイッチバックで折り返すと、竪堀群の上を歩きます。
登山道脇には、竪堀群の上にある曲輪がこんな感じで見えます。

登城開始から30分後
もう少し進むと、登山道の雰囲気が変わります。
ちょっとした段差があり、道幅がここだけ狭くなっています。
道端には石がゴロゴロしていて、門があったように見えます。
後からわかりますが、ここは門ではなく石塁の曲がり角でした。

門っぽい所を上がると、登山道の左側に石が並ぶようになります。
これは往時からある帯曲輪の石塁です。

登城開始から33分後
上の写真でチラっと見えていますが、道端に説明オブジェがあります。
ここが、正面入口だった虎口の跡です。

オブジェに載っている図によると、かなりしっかりした門だったようです。
登って来た帯曲輪も、櫓台の石垣でそこだけ幅が狭くなります。

虎口から出ている道です。
先ほどの旧登山道がこの道です。

虎口から少しだけ旧登山道を下ると、登り石垣がありました。
虎口に近いので、ここから進める方向を限定する意図が見えます。

虎口の脇では、外側の石塁が少し幅広になっています。
これが櫓台です。
ココに乗る櫓って、かなりミニサイズですね


帯曲輪の山側には、土塁に隔てられた曲輪が並んでいます。
ちょっとだけ入ってみると、意外と綺麗に削平されていました。
帯曲輪はかなり長いのですが、その脇にずっと並んでいます。

登城開始から43分後
続いて、長大な防塁の説明オブジェです。
そこかしこにこういうのがあり、とてもワクワクします


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上の図です。
登城路は一番右下から左へ進み、そのまま斜め右に上がる感じです。
虎口手前の門っぽかった所が、石塁の曲がり角だったようです。

道の左側には石塁、右側には土塁を隔てて曲輪が連なります。
ずっと上まで横矢掛かりの状態で進むようになっています。

登城開始から46分後
今度は、主郭2の説明オブジェが現れました。
ドラクエのモンスターみたいですw

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主郭2の図です。
木々が無ければこんな風に見えるんですね


上の図の右下にある、道端の櫓台です。
道幅を狭めて通りづらくしています。

主郭2に入っていくであろう場所です。
明確な道はなく、雑木林の中には特に何も見えず。
入って行く気にはなれず「あぁ、あるんだろな」という感じです。
遺構がココだけなら、何が何でも入って行ったかもしれませんが。

またまた道端に何やら説明オブジェがあります。
山登りなのにあまり疲れなかったのは、こいつらのお陰だったのかも。

登城開始から50分後
地面のオブジェは堀切についてのものでした。
ということで、奥を覗くといらっしゃいました


堀切の奥まで進み、振り返った所です。
事前に見た図ではかなりバッサリでしたが、まぁこんなもんです


せっかくなので、主郭2に上がってみましたが・・・
こんな感じなので、散策には向いていません




帯曲輪が行き止まりに見えますが、草が濃いだけです


登城開始から55分後
行き止まりっぽい所から右に入ると、主郭に到着です(*´▽`*)
2メートル程の段差が目立ちますが、右側にも広い平坦面があります。

段差の手前には、主郭の説明オブジェがあります。
泥で汚れていたので、最近持参しているタワシと水でお掃除しました。
イラスト部分だけですが、映えるようになりました♪

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その成果です。
1枚ずつ別々に撮ったのですが、まぁこんな感じです。
主郭が手前からと奥からの二方向から描かれています。
高崎城は、過剰なくらいに説明板と図で溢れています



登り石垣を多用するのが、大分のお城の特徴なんですね!

段差の所でひときわ目を引くのが、円形に組まれた石垣です。
説明オブジェによると、江戸時代の狼煙場だったそうです。
廃城後も、ちゃんと役割があったんですね!

狼煙場の内部です。
井戸っぽく見えます。

主郭上段の様子です。
高くなっている場所に、戦時中は高射砲があったとか無かったとか。
台座が見当たらないので、その辺が不明確なんでしょうね。

主郭中心部は公園っぽい感じですが、平坦面はまだまだ続いています。
せっかく遠くから来たのですから、隅から隅まで堪能します。

登城開始から64分後
北側に進むと段差があり、その先にも曲輪があります。

上からだとそうでもなさそうですが、下から見ると結構段差があります。

登城開始から65分後
さらに進むと行き止まりっぽくなりましたが、地面にはオブジェが。
見てみると「北端の大規模な堀切」についてでした

事前リサーチではこの堀切については触れられていませんでした。
嬉しい嬉しい誤算です




北の大堀切はかなり大規模で、堀切というよりも急斜面です。

登城開始から66分後
北の大堀切の底です。
人工的に掘ったというより、自然地形に少し手を加えただけのようです。

向こう側は、大きな岩が幾重にも重なっています。
ここを通り抜けるには、岩の脇を恐る恐る進むしかありません。
ここで待ち構えれば、北からの敵をかなり防げそうです。

大堀切から主郭側に振り返った光景です。
かなりの傾斜と高低差があり、一気に登ることは出来ません。
2019年最後がココで良かったと、つくづく思いました(*´▽`*)
◆歴史◆
文献の初出は1349年です。
この時の大友家当主は大友氏時でした。
大友氏時は1348年、兄から家督と守護職を譲られました。
ただ、実際は兄・大友氏泰が仕切っていたようです。
当時は南朝方の懐良親王が菊池武光を従え絶頂期でした。
北朝方は九州探題の一色範氏と筑前等4か国の守護・少弐頼尚が対立。
少弐頼尚は南朝方と連携し、北朝方の大友氏泰を攻めました。
大友氏泰は降伏し、南朝方となります。
1354年、大友氏泰が降伏した後、一式範氏が長門へ逃れました。
翌年、一式範氏が逆襲を試みたものの返り討ちに遭い、完全に撤退します。
1355年、懐良親王に攻められました。
少弐頼尚が態度を一変し、南朝方と対立するようになります。
大友氏泰は少弐氏に味方し、行動を共にするようになりました。
すると、懐良親王が日田から侵攻し大友館を攻めました。
大友氏泰は再び降伏しています。
1358年、再び懐良親王に攻められました。
大友氏泰が再び少弐氏とともに敵対するようになりました。
そのため、懐良親王により高崎城が攻められました。
この時は志賀氏房が背後から南朝軍を攻めたため、撃退しています。
1362年には、菊池武光に攻められました。
菊池武光が8月に高崎城の大友氏時を攻めました。
大友氏泰が11月に没している事から、重い病だったのかもしれません。
菊池軍主力が豊後へ出陣中に、九州探題・斯波氏経が大宰府を攻めました。
そのため、菊池武光は大急ぎで撤退しています。
1371年の夏から正月にかけて、菊池軍に攻められました。
室町幕府は、南朝方を抑えるためにエース・今川了俊を九州へ投入します。
九州探題となった今川了俊は、嫡男・今川義範を高崎城に入れました。
すると、菊池武光は懐良親王の子を奉じて豊後へ侵攻しました。
南朝軍は半年にわたり包囲しましたが、大宰府がピンチになり撤退します。
大友親世(大友氏時の次男)は、今川軍に合流して大宰府を制圧。
以後、九州の南朝勢力は急速に衰えました。
1518年、朽網親満が立て籠もりました。
朽網氏は大友氏初代の兄弟から分かれた大友家の一門です。
朽網親満は大友親治が当主となった1497年に加判衆となっています。
しかし、1512年を最後に加判衆としての活動が見られなくなります。
そして、1518年に大聖院宗心を擁立し、謀反を起こしました。
朽網親満は菊池家乗っ取りに深く関わっており、齟齬が生じたようです。
(菊池家は朽網親満が保護した菊池武経ではなく、菊池義武が継ぎました)
宗家と対立していた田原親述なども味方に引き込もうとするも失敗。
単独での挙兵となり、高崎城に立て籠もり討伐されました。
1586年、大友義統が一時立て籠もりました。
島津軍が豊後へ侵攻し、大友家は滅亡の危機に瀕しました。
大友家臣は相次いで島津軍に投降し、府内に迫る勢いでした。
大友宗麟は臼杵城に籠城し、大友義統は高崎城で島津軍に備えました。
豊臣秀吉は大友宗麟の要請に応え、四国勢を豊後へ出陣させます。
仙石秀久を総大将とする豊臣軍は、大分市南東の戸次川に陣を敷きました。
しかし、大名の寄せ集めで統一が取れず、島津軍に大敗を喫しました。
9年前に日向であった耳川の戦とよく似ています

豊臣軍の敗戦を受け、大友義統は戦わずに豊前の龍王城へ逃れています。
これ以降、高崎城についての記録はありません。
その後、大友義統は1593年に朝鮮での敵前逃亡が原因で改易されました。
高崎城からの撤退が、豊臣秀吉の心証を害していたのが一因とされます。
所在地:大分市神崎(高崎山) GPSログダウンロードページ
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