2020/02/15
上原館/大分市
上原館は別名・西山城とも呼ばれた大友氏の居館です。訪問日は2019年12月31日です。

上原館は、現在は住宅街のド真ん中にあります。
この駐車場は見学者用ではなく、常にチェーンが掛かっています。
私は最後まで駐車場を見つけられませんでした

約50メートル西の日焼けサロン脇から入る砂利道が駐車場の入口です。

建物と建物の間の狭い通路に鳥居があります。
建物と同じ白だったので、これも目立ちません。

まっすぐ上がるこの感じは、登城路ではありませんねw
上原館跡とされるココは、実は土塁の一部分だったりします。
なので、ココでは虎口は見ることが出来ません。
大手の虎口跡が北西にあるそうです


土塁なのですが、かなり幅が広いです。
これだけ幅がある土塁だと、曲輪の規模は相当な大きさになるハズです。
当日の私は櫓台だと思っており、ここが館だったんだと感激してました


かなり狭いスペースですが、ちゃんと立派な石碑があります


奥に祀られている天満社です。
大友家が信仰していた、、、という感じではありません。
廃れた後の周囲の住民達が祀ったんでしょうね。
お社のお陰で、ここだけが残されたようです。

土塁の反対側です。
住宅街に完全に包囲されており、道が回り込んでいます。
土塁のどちらかが、残っているとされる堀跡のようです。
◆歴史◆
室町時代初期に大友氏泰により築かれたと考えられています。
大友氏泰は7代目の当主です。
父・大友貞宗は当初、九州探題の北条英時に従っていました。
しかし、足利尊氏が六波羅探題を攻略すると、倒幕側に寝返りました。
失敗しても家が存続するよう、未成年の五男に家督を継がせたのでした。
大友貞宗は北条英時を滅ぼしましたが、その年の末に急死しています。
大友氏泰は古国府から上野丘に居館を移しました。
北側に大友館跡が見つかるまで、ここが大友館と呼ばれていました。
1597年、府内城築城により廃されました。
室町時代を通じ、豊後の大名・大友家の本拠でした。
いつの頃からか、大寺院と庭園を伴った居館が北側に出来ましたが・・・
大友宗麟が臼杵城へ移ったのが1557年なので、それ以前のようです。
1586年、島津軍が侵攻した際に焼失。
出土物には焼けた跡が残っているそうです。
1593年には、大友義統が朝鮮で敵前逃亡したとして改易されました。
その後の大友家旧領地は、太閤蔵入地として細分化されました。
1597年、豊後府中のあった大分郡が、福原直高の領地となりました。
福原直高は石田三成の妹婿で、数年の間にトントン拍子で出世しました。
府中の主となった福原直高は、新たに府内城を築きました。
この時に旧大友家居館が廃されたとされています。
所在地:大分市上野丘西(天満社)
大分県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント