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上原館/大分市

上原館は別名・西山城とも呼ばれた大友氏の居館です。
訪問日は2019年12月31日です。

上原館【1】

上原館は、現在は住宅街のド真ん中にあります。
この駐車場は見学者用ではなく、常にチェーンが掛かっています。
私は最後まで駐車場を見つけられませんでしたあせる
約50メートル西の日焼けサロン脇から入る砂利道が駐車場の入口です。

上原館【2】

建物と建物の間の狭い通路に鳥居があります。
建物と同じ白だったので、これも目立ちません。

上原館【3】

まっすぐ上がるこの感じは、登城路ではありませんねw
上原館跡とされるココは、実は土塁の一部分だったりします。
なので、ココでは虎口は見ることが出来ません。
大手の虎口跡が北西にあるそうですあせる

上原館【4】

土塁なのですが、かなり幅が広いです。
これだけ幅がある土塁だと、曲輪の規模は相当な大きさになるハズです。
当日の私は櫓台だと思っており、ここが館だったんだと感激してましたあせる

上原館【5】

かなり狭いスペースですが、ちゃんと立派な石碑があります合格

上原館【6】

奥に祀られている天満社です。
大友家が信仰していた、、、という感じではありません。
廃れた後の周囲の住民達が祀ったんでしょうね。
お社のお陰で、ここだけが残されたようです。

上原館【7】

土塁の反対側です。
住宅街に完全に包囲されており、道が回り込んでいます。
土塁のどちらかが、残っているとされる堀跡のようです。


◆歴史◆

室町時代初期に大友氏泰により築かれたと考えられています。

大友氏泰は7代目の当主です。
父・大友貞宗は当初、九州探題の北条英時に従っていました。
しかし、足利尊氏が六波羅探題を攻略すると、倒幕側に寝返りました。
失敗しても家が存続するよう、未成年の五男に家督を継がせたのでした。
大友貞宗は北条英時を滅ぼしましたが、その年の末に急死しています。
大友氏泰は古国府から上野丘に居館を移しました。
北側に大友館跡が見つかるまで、ここが大友館と呼ばれていました。

1597年、府内城築城により廃されました。

室町時代を通じ、豊後の大名・大友家の本拠でした。
いつの頃からか、大寺院と庭園を伴った居館が北側に出来ましたが・・・
大友宗麟が臼杵城へ移ったのが1557年なので、それ以前のようです。
1586年、島津軍が侵攻した際に焼失。
出土物には焼けた跡が残っているそうです。
1593年には、大友義統が朝鮮で敵前逃亡したとして改易されました。
その後の大友家旧領地は、太閤蔵入地として細分化されました。
1597年、豊後府中のあった大分郡が、福原直高の領地となりました。
福原直高は石田三成の妹婿で、数年の間にトントン拍子で出世しました。
府中の主となった福原直高は、新たに府内城を築きました。
この時に旧大友家居館が廃されたとされています。


所在地:大分市上野丘西(天満社)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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