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鳥屋城/大分県豊後大野市

鳥屋城も一萬田氏により築かれた山城です。
訪問日は2020年1月11日です。

年末の夕方、この前を通り掛かったのが日没間際でした。
かなり遠くから案内があり、登城口には立派な説明板があります。
これはきっと凄い城跡に違いない!と思ったものの、時間が足りず。
「年末見落としシリーズ」の1つとして訪ねました。

鳥屋城【1】

登城口はこんな感じで、車を停められます。
林道は勝手に通るなと書かれていますが、ご丁寧に杖が沢山あります。
「どっちを信じればいいんだ?」となりますが、都合の良い方でw

鳥屋城【2】
拡大表示

説明板に載っている縄張図です。
もちろん、皆様のために拝借ですラブラブ
登城路から城内へ入るのは、右隅の大手虎口からです。

鳥屋城【3】

林道はこんな感じで、きれいに舗装されています。
こんなにいい道なら、出来るだけクルマで登りたい!というのが人情です。
でも、それはやめておいた方がいいです。

鳥屋城【4】

駐車場から100メートル程で、登城路が林道から分岐します。
ここからは徒歩ですが、近くに車を停めるスペースがありません。
ここまで比高がある訳でもないので、大人しく入口に停めましょう。

鳥屋城【5】

城跡まで綺麗に整備された山道が続きます。
距離は約1000メートルで、100メートルおきに案内があります。
ここは上に「あと100メートル」の案内があるピークです。
下から見上げて何か感じますでしょうか?

鳥屋城【6】

ピークの頂上脇に、あと100メートルがあります。
ここでピークの高まりを見ると・・・

鳥屋城【7】

物見櫓と書かれた岩プレートがありますラブラブ
あまりに周りに溶け込み過ぎていて、行きには気付きませんでしたあせる

鳥屋城【8】

あと100メートルなのですが、ここで下り→上りがあります。
距離からして最後の登り坂だ!と、自分を叱咤激励する瞬間です。
例の黒い奴が「ピンクのテープは右だぞ」なんて囁きますが無視。
ちゃんと、草の無い所を歩いてokですクローバー

鳥屋城【9】

実はこの坂の頂上が、大手虎口だったりします。
その手前にこれがあるのですが、やっぱり行きは見落としました。
雰囲気を壊したくないという事かもですが目立ちませんあせる

鳥屋城【10】

登り切ったココが大手虎口です。
虎口っぽくありませんが、右脇の高い所は土塁です。

鳥屋城【11】

そして、大手虎口の真正面に見える平坦面がいきなり主郭です。
往時はもっと別のルートがあったのかもしれません。

鳥屋城【12】

平坦面はかなり広く、直角に曲がっています。
大手虎口から見て真正面の奥が南曲輪です。
主郭と南曲輪の境は不明瞭ですが、少し段差があるようです。

鳥屋城【13】

南曲輪の先端から大手虎口方向を振り返った所です。
けっこう距離があるので、大手虎口は見えません。
右端の高い所は、大手虎口から続く土塁です。

鳥屋城【14】

主郭まで戻り、直角に曲がって振り返った所です。
主郭は北側と東側に高い土塁が付き、反対側にはありません。

鳥屋城【15】

主郭から二郭側へ進みます。
右側にある高まりが土塁です。
鳥屋城の特徴は、細長い曲輪の一方に土塁がある事です。

鳥屋城【16】

低い位置の曲輪は、真正面に土塁が現れることで行き止まりとなります。
この行き止まりが二郭です。
土塁のピークがココにあり、そこから二郭を撮りました。

鳥屋城【17】

今度は三郭方向を目指して土塁を下ります。

鳥屋城【18】

途中から、土塁に沿って左側に曲輪が連なります。

鳥屋城【19】

土塁を下り切った所に、三の丸展望台と水の手の案内があります。
この水の手へ向かう側が西虎口だと縄張図には描かれています。
現地で見た限りは、虎口ってどこ?という位にわかりませんでしたあせる

鳥屋城【20】

西虎口の前から見上げた三郭方向です。
山城の宿命で、ここは上がったり下がったりが激しいです。

鳥屋城【21】

特に喜びそうなアトラクションが無いとわかっていても登ります。
それが、城キチと分類されたヒトのサガなのですから。
・・・と、勝手に決めつけていますあせる
高い所にあるだけあって、周囲の眺望はそこそこイイです。

鳥屋城【22】

二郭上の土塁のピークに戻り、今度は物見櫓を目指します。
この土塁のピークのそっち側に、鳥屋城唯一の堀切があります。

鳥屋城【23】

物見櫓方向から見ると、一見してココ上がれるの?という感じです。
堀切というからには、ココを進む邪魔をするモノだと思いましたが・・・

鳥屋城【24】

すぐ脇を歩けるような帯曲輪っぽいのが並行しています。
ココがどういう意図でこんな構造なのか想像出来ません。

鳥屋城【25】

超ロング土橋っぽい細尾根の先端部が物見櫓です。
物見櫓の標示とならんで、城山山頂のプレートもありました。
一番高い所ですが、周りを木で囲まれており眺望はチョット残念です。


◆歴史◆

一萬田氏により築かれました。

鳥屋城は、一萬田氏初代・時景により築かれたとされます。
一萬田時景は、大友氏初代・大友能直の六男です。
大友能直は源頼朝の寵臣で、1193年に豊前・豊後の守護となります。
大友家初代・大友能直は相模国出身で、父親を早くに亡くしました。
そのため母の姉婿である中原親能の養子となります。
その中原親能が大野郡の荘官・大野氏を滅ぼし、地頭職となります。
中原親能が没すると、大友能直の母親に大野郡が譲られます。
さらに1240年、母から子へ大野郡が4分割され譲渡されました。
大野郡を与えられた大友能直の弟達が、一萬田氏や志賀氏の祖先です。
一萬田氏は鳥屋城と小牟礼城を拠点としました。

1362年、菊池武光に攻められ落城しています。

1362年、菊池武光が大友氏時の高崎山城を攻めました。
その帰りに、志賀氏房が籠る鳥屋城を攻め落としまています。
志賀氏房は1355年、高崎山城を攻める南朝軍の背後を襲っていました。
その仕返しだったと思われます。
鳥屋城は一萬田氏の城でしたが、なぜ志賀氏が籠城したのか?です。
1359年に筑後川の戦で、大友氏時は少弐頼尚とともに南朝に大敗しています。
この時には一萬田直能の名がありました。
一萬田直能がこの戦で討たれ、後継ぎが若かったのかもしれません。

1588年、宗像鎮続が城主となります。

島津軍が豊後へ侵攻すると、豊後南西部では寝返る大友家臣が続出。
一萬田鑑実は寝返りませんでしたが、一族の大半が島津軍に寝返っています。
その後、豊臣秀吉が大友宗麟に援軍を送り、島津軍は薩摩へ撤退。
九州征伐軍が島津軍を降し、大友家は生き残りました。
その直後に大友宗麟が没し、大友義統が大友家当主となります。
すると、一萬田鎮実、鑑之、統政が自害を命じられます。
彼らは島津軍に寝返っており、一萬田家嫡流はこの時に滅びました。

鳥屋城は、宗像鎮続に与えられました。
出自が?な人物ですが、一萬田鑑実の叔父に宗像鑑久がいました。
宗像鑑久はその兄・高橋鑑種の謀反に同調して討死しています。
一萬田氏の城を継いでおり、もしかすると血縁があるかもしれません。

1593年、廃城となりました。

朝鮮出兵の最中に敵前逃亡したとして、大友義統が改易されました。
そのため、宗像鎮続も領地を失い、鳥屋城は廃城となりました。
宗像鎮続はその後、岡城の中川秀成に仕えました。
1600年、大友義統が西軍として豊後へ上陸すると駆け付けました。
黒田如水の軍勢と別府市の石垣原で戦となり、この時に討死しています。


所在地:大分県豊後大野市朝地町鳥田 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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