2020/01/30
田北城/大分県竹田市
田北城は大友家一門・田北氏の居城でした。訪問日は2019年12月31日です。

田北城へは、南西の農道から車で行けます。
途中獣避けのフェンスを開け、鳥居の所で道が分岐します。
城跡へは鳥居のある方へ進みます。

鳥居から神社のある城跡へ向かう道です。
未舗装で轍が無く、落ち葉がたんまり積もっています。
こんな道ではぬかるみにハマリそうな予感しかしませんでした。
距離は大した事ないので、鳥居前の広いスペースに車を停めて歩きました。

300メートル程進むと、道端に異変が


最初の堀切様は、浅く控え目です。

二番目の堀切様は、豪快かつダイナミックです。

三番目の堀切様が一番規模が大きいのですが、ちょっと毛深いです


奥に行けば見やすい所もあるかと思いましたが・・・
ただの藪掻きにしかなりませんでした


三重堀切の向こう側にあるのが、神社のある主郭です。

全般的に破壊されていますが、社殿正面に土盛りがあります。
はじめは虎口かと思いましたが、土塁でした。

土塁の向こう側は急斜面となっています。

八幡神社のすぐ東に宝積寺があります。
田北氏の菩提寺らしいので道があるかと思いました。
確かに道の跡はあるのですが、ご覧の状態です。
久しく人が歩いていない感じです。
◆歴史◆
大友家一門・田北氏の城でした。
田北家は大友家2代目・大友親秀の七男・親泰を祖とします。
直入郡田北村と速水郡日差荘を与えられ、田北姓を名乗るようになります。
以後、田北氏は田北城を居城とし、松牟礼城を詰めの城としました。
戦国時代には田北鑑生、鑑重(紹鉄)、鎮周兄弟が活躍します。
田北鑑生が長兄で、1527年の佐伯惟治討伐が初陣です。
1534年の大内軍との戦では、劣勢だった大友軍の逆転劇を演出。
大友義鎮(宗麟)の代には加判衆筆頭となります。
しかし、1561年にあった第四次門司合戦で重傷を負い落命します。
兄が没すると、家督は田北紹鉄が継ぎました。
宣教師からは「豊後で最も強く策略もある」と評価されていました。
毛利軍や長野氏との戦で抜群の戦功を挙げますが、冷遇されました。
大友宗麟は田北紹鉄の実弟・田北鎮周をひいきにし重く用いました。
とはいえ、田北鎮周も武将としてはかなり優秀でした。
しかし、耳川の戦では田北鎮周が大友軍大敗の原因となっています。
1580年、田北紹鉄は讒言により討伐されました。
討伐に向かった一萬田氏や志賀氏は同情的で、筑後へ逃がされています。
しかし、その途中で襲われて討死しています。
田北氏が滅ぼされると、大友宗麟は吉弘鎮信の次男に田北家を継がせました。
田北統員は佐伯惟定と共に島津軍と戦い、手柄を立てています。
朝鮮出兵にも参陣していますが、その最中に大友家が改易されています。
その後は肥後細川家に仕官し、吉弘紹傳に改名しています。
所在地:大分県竹田市直入町上田北 GPSログダウンロードページ
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