2020/01/17
雁股城/福岡県上毛町
雁股城は福岡と大分の県境にあった、野仲氏の城でした。長岩城の物見台的な役割を果たしていたとされます。
訪問日は2014年12月29日です。

雁股城へは雁股峠から稜線上を歩きます。
雁股峠までは舗装された道があり、車で登れます。
峠はトンネルが通っていますが、狭くて真っ暗。
軽でも車では走りたくないですね

大分側は未舗装道らしいので、福岡側からのアクセスがお勧めです。
どっちの県のお城か?と言われると・・・ですw

峠の手前には、城と城主様の幟がありました。
既に5年前なので、今でもあるのかは?です


雁股山への遊歩道は、トンネルの手前から上がります。
遊歩道は稜線上にあるので、林道からは「よじ登る」恰好となります。

その登り口ですが、ちょっとお先・・・な予感です


とは言え、稜線上の遊歩道はとても綺麗に整備されています。
この手の山道は、山キチさんには人気がありそうです。
その理由も、歩いてみると何となくわかります。
城キチにはそんなに楽しくないですけど


それでも、城跡に近づくにつれて妄想癖が逞しさを増して行きます。
入口から20分でまだ東峰の手前ですが、道が大きな岩に挟まれています。
私ならココに門を置くなぁ、なんて思ってしまいます。
すると、もうすぐ色々現れるカモなんて、期待ばかりが膨らみます。

階段の続く坂道で、こんな風に石が並んでいたりすると、もうw
この石の列なんだろう、何だろう


色々とあれは何だ?、これは何だ?と特に何も無く、東峰に到達。
一応山頂なので平らではありますが、曲輪という程ではありません。

入口から1.3kmですが、ここまでで1時間10分かかっています。
稜線上なので、登ったり下ったりの繰り返しで、ただ登るよりハードです。

雁股山は東峰と西峰の2つのピークから成る山です。
なので、一旦下ってまた登ります。
こうやって見上げると、なかなかメンタルに来ます


城跡は西峰周辺に展開されていました。
西峰手前に、最初の堀切が現れました。
・・・写真ではちょっとわかりづらいです。

西峰の手前で、険しさはピークに達します。
ロープではなく鎖につかまりながら登ります。
・・・ロッククライミングですw

岩が多いので、ちょっと固まってたりすると石垣に見えてしまいます。
誰かいい目のビョーイン紹介して下さい

私は見つけられなかったのですが、この辺りにあるらしいです。

急峻な山肌を登ると、一気に傾斜が緩くなります。
疲れ切った登山者が休めるよう、テーブルとイスがあります。
ここが、実は曲輪らしいです。
土塁や堀、虎口らしいのが無いので、パッと見ではわかりませんでした。

そして、すぐ上が西峰の頂上です。
ここも一応平らですが、岩ゴツゴツで狭いです。

城は主に、西峰から北に延びる尾根にあったそうです。
そちらへ少しだけ進みましたが、何となく段になっているように見えます。
一番手前の段が特に深くて、堀切っぽく見えなくもないです。
もし堀切だったら、私なら横顔を撮ってるハズですが、そんな写真は無し。
でも、やっぱり堀切に見えます

◆歴史◆
野仲鎮兼の居城・長岩城の支城でした。
某大聖典では・・・
畠山義深が1370年に菊池武光を破り、子を配置したとしています。
その後、畠山氏は大内氏に追われ、野仲氏の城になったと書かれています。
畠山義深が菊池武光から奪って拠点としたのが戸城山城です。
戸城山城の別名が『大雁股』なので、混同した?とする説があります。
訪ねてみてわかりますが、規模としては物見台程度のお城です。
1587年、野仲鎮兼が黒田軍と戦った際、野仲家臣・友枝大膳丞が城主でした。
友枝大膳丞らは観音原で黒田軍と激突し、後藤又兵衛に重傷を負わました。
しかし、戦は野仲軍の大敗に終わり、城主の友枝大膳丞は討死しました。
雁股城を守っていた友枝大膳丞の弟・新兵衛は黒田軍に降伏しました。
支城を次々と攻め落とした黒田軍は、野仲家の本拠・長岩城を攻めました。
三日三晩の激戦の末に長岩城は落城し、野仲鎮兼は自害。
その嫡男も裏切った家臣に殺され、野仲家は滅びました。
黒田領となった野仲家旧領は、黒田家臣の栗山利安に与えられました。
この時、長岩城とともに雁股城も廃城になったと思われます。
所在地:福岡県築上郡上毛町大字西友枝
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