2020/01/27
一萬田氏館/大分県豊後大野市
一萬田氏館は、大友家重臣・一萬田氏の平時の居館でした。訪問日は2019年12月30日です。

館跡への入口は、北西の道沿いにあります。
ここだけ路肩広くなっており、車を停められます。

入口には、ちゃんと標柱もあります


坂道を上がると、土が段のようになっているのが見えます。

土の段の手前側です。
ここから奥に入って行けます。

この土の段に見えるのは土塁です。
高さは3メートル程あります。
畑作により大部分が削られ、残っているのはほんの一部分です。

元の道に戻り、行儀よく進んだココが入口のようです。
大友家の加判衆も務めた一萬田鑑実の館ですが、それっぽさがありません。

入口には説明板が落ちていました。
一萬田氏は、平時はここで暮らしていたと書かれています。

入口に大きな木があり、その陰にも説明板があります。
これは石塔についてのもので、大永8年(1528年)のものだそうです。
具体的に誰なのかは?ですが、一萬田家の夫人のものと考えられています。

土塁の内側には、土塁についての説明板があります。
ここには「関係者の善意と保護が無ければ消失する」と書かれています。
どうやらココは私有地のようです。

入口に土塁や石塔がある以外は、こんな感じです。
大物武将の居館があったとは感じられない、一面の野原です。
所々に畑が耕されており、私有地のようです。
ただ、畑の端には境界線がハッキリ引かれています。
行政による買収が進んでいるのかもしれません。
◆歴史◆
一萬田氏の平時の居館でした。
一萬田氏は、大友家初代・大友能直の六男・時景を祖とする一族です。
大友能直は源頼朝の寵臣で、1193年に豊前・豊後の守護となります。
大友能直は早くに父親を亡くし、母の姉婿・中原親能の養子となります。
中原親能は大野郡の荘官・大野氏を滅ぼし、大野郡を手に入れました。
その後母親に譲られた大野郡は、1240年、4分割して子へ譲られました。
大野郡を与えられた大友能直の弟達が、一萬田氏や志賀氏の祖先です。
一萬田時景は、山城の小牟礼城や鳥屋城を築いたとされます。
ただ、ココの居館が築かれた時期は?です

手掛かりとなるのは、付近にある石塔に刻まれた年号です。
一萬田家当主夫人のお墓と見られる石塔は「大永8年(1528年)」
一萬田家当主の名が刻まれた付近の六地蔵塔は「応永17年(1411年)」です。
おそらく、居館はそれ以前からあったと思われます。
一萬田鑑実は大友家の主要な戦で活躍した重臣中の重臣です。
戦に明け暮れた一萬田鑑実は、お城らしくないココを好んだようです。
館の敷地内には墨染桜という、珍しい桜の木があったそうです。
春に花が咲くと、一萬田鑑実は誰でも自由に花見をさせていました。
噂を聞きつけた大友宗麟が興味を持ち、一萬田鑑実が招いています。
墨染桜の下に仮屋を建て、二夜三日能楽や酒宴を楽しんだそうです。
1588年、一萬田家嫡流が滅びます。
1586年、島津軍が豊後へ侵攻しました。
島津軍は日向ルートと阿蘇ルートの2手に分かれ豊後へ侵入。
阿蘇ルートは島津軍一の猛将・島津義弘が率いていました。
はじめは入田宗和が寝返り、志賀一族の大半を誘って寝返らせています。
そして、一萬田家当主・一萬田鎮実も島津軍に寝返りました。
(一萬田鑑実は嫡男の一萬田鎮実に家督を譲っていました)
一萬田鑑実は島津軍に敗れ自害したとも降伏したともされ?です。
この時、岡城の志賀親次が奮闘し、時間稼ぎに成功。
豊臣秀吉による九州征伐により、大友家は生き延びることが出来ました。
しかし、直後に大友宗麟は病没し、大友義統が当主となりました。
すると、先の島津軍侵攻の際に寝返っていた家臣の粛清を始めました。
一萬田家では一萬田鎮実ら3名が、大友義統の命により自害。
一萬田家嫡流はこの時に滅びてしまいました。
その後生き延びた一萬田氏には、一萬田宗賢がいます。
一萬田宗賢は一萬田鎮実の弟で、大友義統に従っていました。
大友義統が改易された後は、黒田如水に従って戦った記録があります。
遅くともこの1593年までに、館は主を失ったと思われます。
所在地:大分県豊後大野市朝地町池田 GPSログダウンロードページ
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