2020/01/26
騎牟礼城/大分県竹田市
騎牟礼城は源為朝が築いたとされ、別名「鎮西城」とも呼ばれます。訪問日は2019年12月30日です。

東側にある登城口です。
クルマ1台が通れる舗装道が城内まで続いています。

登った所にある鞍部に駐車場があります。
ここが城を東西に分けており、見方によっては大堀切っぽいです。
道はそのまま西側へ下りて行きます。

主郭は最後ということで、まずは西側から。
道幅が広くて緩いので、往時の道ではなさそうです。

上の写真の左側の城塁が気になって見たら、石垣がありました


道を上がった所で、道の脇がストンと落ちます。
表現が難しいのですが、先端部がちょっとした櫓台っぽい感じです。
その足元がちょっと窪んでおり、人工的に切った感じに見えます。
馬出しのように登城口から城内が見えないようにしていたのでしょうか。

窪みのある所の反対側です。
こっち側も少し窪んでいるように見えます。
目の錯覚かもしれないレベルですが

細長い地形を分断する窪みだったら、堀切があったかもしれません。

全般的に細長い地形で、上がってしまうと高低差はありません。
ずっとこんな地形が続きます。

広くなった所では、南側に低い土塁が見られます。

広くなった地形は一旦狭まり、その先にまた広い所が見えます。

西側の先端部にある広い曲輪です。
地図では「北の丸」と書かれています。
まぁ、主郭と比べればビミョーに北ですけどw
かなり広い曲輪で、端には先程のような土塁があります。

北側から西側にかけては、一段低い帯曲輪があります。

駐車場に戻り、今度は反対側の主郭へ。
こちら側は派手に削られており、コンクリートの道があります。
この道は苔っぽいので、車で登ろうとすると滑るかもしれません。
左側の斜面を見ると、左上から右下へ斜めの道が途中まで見えます。
かなりの傾斜で、上から横矢を掛ける感じの虎口だったようです。

こちら側も、上がってしまえば平らです。
そして、かなり広いです。

木が伐採されているので、眺めはかなり良いです。

東の先端部から振り返って見た主郭です。
途中、堀でぶった切って2つに分けても良さそうな位に広いです。

真ん中辺りにこんもりした所があり、石灯篭と説明板があります。
植えられている木は桜のようなので、春先は賑わいそうです。
◆歴史◆
源為朝により築かれました。
1150年から6年間、源為朝が拠点にしたとされます。
源為朝は源頼朝の叔父で、九州に追い払われていた人物です。
強弓の使い手ですが、粗暴な性格が父に嫌われていたそうです。
そんな源為朝ですが、上に立ちたがる性格だったようで・・・
勝手に鎮西追捕使を名乗り、緒方氏など地元の土豪達を配下にします。
1156年にあった保元の乱では、父・源為義が源為朝を呼び寄せます。
こんな時には粗暴な性格と強弓が重宝するんですねw
敵対した兄・源義朝でさえ、源為朝と対峙すると敵いませんでした。
しかし、乱は源為義側が敗北。
源為義は処刑されましたが、源為朝は武勇を惜しまれ助命されました。
ただし、強弓が引けないよう肘を外され、伊豆大島へ流されています。
源為朝は、肘が治ると伊豆大島でも暴れたそうで・・・
流石にこうなると討伐を受け、日本史上初の自害をしたそうです。
大友一門・志賀北家初期の居城でした。
志賀家は大友家一門で北家と南家があり、北家が宗家です。
鎌倉時代に大野郡大野荘志賀村の地頭となり、志賀姓を名乗りました。
南北朝時代に活躍した志賀氏房が、1369年に直入郡の代官となりました。
この時に居城としたのが騎牟礼城とされます。
志賀氏房は北朝方の大友氏時とともに、南朝方と戦っています。
主な戦績は、1355年の高崎山城での戦と1362年の鳥屋城での戦です。
志賀氏房は後に岡城へ移りますが、以後も重要な支城となります。
1586年に島津軍に攻められた際にも、岡城の支城として機能していました。
志賀一族の大半が島津軍に寝返りましたが、志賀親次は岡城で抵抗します。
2万5千とも3万ともされる島津軍を手玉にとり、岡城を死守。
戦後、豊臣秀吉から賞され、敵将・島津義弘も「天正の楠木」と称えました。
そんな志賀親次ですが、主の大友義統が1593年に改易されます。
そのため領地を失い、志賀親次も豊後を去りました。
おそらく、この時に廃城になったものと思われます。
1877年、西南戦争で薩摩軍が拠点としました。
西郷隆盛率いる薩摩軍は、熊本城を攻めたものの落城せず。
そうこうしている内に新政府軍が到着し、田原坂で激戦を繰り広げました。
一度南下した薩摩軍は、新政府軍のいなかった日向を制圧。
物資を補給した薩摩軍は、豊後へ進出して反撃に転じます。
その中で、薩摩軍の野村忍介隊が騎牟礼城跡を拠点としました。
そのため、新政府軍に攻められ、17日間にわたる激戦地となります。
この戦闘により、竹田では213人が死亡し、1229戸が焼失しました。
現在でも、周辺の田畑を掘り返すとこの時の銃弾が出てくるそうです。
所在地:大分県竹田市飛田川 GPSログダウンロードページ
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