2020/01/25
津賀牟礼城/大分県竹田市
津賀牟礼城は大友家一門・入田氏の居城でした。訪問日は2019年12月30日です。

南からの登城路が整備されたというので、そちらを探してみました。
なので、どこがそうなのかは完全手探りでしたが、見つけました


入口は舗装路でしたが・・・
100メートル程で未舗装になり、道幅も狭くぬかるんでる所も。
完全に4WD軽トラ仕様の道でした。
街乗り用の借り物のクルマにはしんどい道ですが、Uターンする所も無し。
これはヤバイと、途中路肩が広い所を見つけて停め、そこから歩きました。
なので、白セメントの道に入る前にどこかに停めた方がいいです。
・・・という間に、色々苦労して辿り着いた登城口ですw

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登城口には、案内も兼ねて縄張図がありました。
ここの図はネットに出て無かったので、とても助かりました


登城口から登り、割とすぐに堀切1が現れました。
綺麗にザクっと切れています


この堀切の断面から城内へ入ります。

登城口から7分で広い曲輪に出ました。
いきなりですが、主郭です。
主郭は、カタカナの「ト」を100度右へ倒した感じの形です。
とても長い曲輪で、GPSログから計った長さは100メートルちょっとでした。

北端には石灯篭があり、北東に向かって道がありました。
こちらが諸兄が紹介されている登城路のようです。

外周に沿って歩いていると、南端付近から北東側に腰曲輪があります。
ちょっと見てくるかと下りてみたら・・・

その先端に堀切がありました

上の図では頂上部と堀切3の間にある、うっすら手書きのヤツです。
写真は向こう側から主郭の方を向いて撮っています。
陽の当たり具合が違うようで、堀切を境に草が生えています。

さらに奥へ進むと、左前方に大きな堀切が見えました。

もちろんお側へ


その先にもう一条いらっしゃいました。
ちょっと先まで進みましたが、この先にはもう堀切はありませんでした。
元の本丸に戻ろうとUターン。

先ほどの堀切を越えて戻ったつもりが、かなり大きな堀切が




写真では感じられませんが、深さは5メートル程ある大きなものです。
堀底まで下りて満足してしまい、そのままUターン。
この先にあるもう1つの堀切を見逃していまいました

最初の堀切から戻る時に、方向を間違えていました。
事前に上に載せたような案内図も無かったので、どこがどうだか?でした。

東側の尾根から本丸に戻り、外周を時計回りに進みました。
南端からちょっと上がった木の所に、オレンジの札と木の札がありました。
ここに来るまで苦労したので、こういう物でもあると嬉しいものです


本丸の南西側から、下りる道がありました。
これがその「道」です。
私が行くような山城では、まぁまぁよく見る光景ですw

奥の登城口です。
案内図ではこの付近に駐車場が描かれていましたが・・・
ここまで車で来たら、道にハマって身動きがとれなくなりそうです。
◆歴史◆
入田親真により築かれたと伝わります。
築城時期は不明ですが、入田親真により築かれたとされます。
入田親真は親実、親誠とも表記される、大友家の重臣です。
祖父の代から大友家の加判衆を務めた、大友一門です。
大友義鑑に仕え、その嫡男・義鎮の傅役を務めました。
しかし、大友義鎮は粗暴な性格で、父や入田親真とは不仲でした。
大友義鑑は義鎮を廃嫡し、塩市丸を後継者にしようと考えるようになります。
そうして起きたのが、二階崩れの変です。
1550年2月10日、義鎮派重臣の粛清計画がバレれました。
そのため、塩市丸とその母親が殺され、大友義鑑も重傷を負いました。
大友義鑑は瀕死の状態で大友義鎮と和解し、遺言を残して家督を譲りました。
そしてその2日後、世を去りました。
入田親真は義鎮派粛清の黒幕と見なされ、追われる身となります。
豊後に居られなくなった入田親真は、正室の実家である阿蘇家を頼りました。
しかし、阿蘇惟豊は入田親真を許さず、殺して首を大友義鎮に送りました。
子の入田宗和(義実)は助命されましたが、追放され流浪の身となりました。
津賀牟礼城は、隣接する領主である志賀氏が預かったと思われます。
1580年頃、入田宗和が大友家に復帰しました。
耳川の戦で島津軍にボロ負けした後、入田宗和が許され帰参しました。
筑前国鞍手郡若宮荘350町など、領地の一部が返還されました。
しかし、父や祖父、曾祖父らのような加判衆にはなれず、冷遇されます。
入田宗和は反抗するようになり、何度か討伐を受けました。
そのため、山深い入田城を拠点とするようになります。
1586年、入田宗和が島津軍に寝返りました。
島津軍が豊後へ侵攻すると、入田宗和は島津軍に寝返りました。
ただ寝返るだけでなく、近隣の志賀家の大半も島津軍に寝返らせました。
そのため、豊後南西部の竹田周辺は、一気に島津軍の勢力圏となります。
しかし、志賀家の中で岡城の志賀親次だけは寝返らず、抵抗しました。
島津軍は2万5千の大軍でしたが、志賀親次は奇襲攻撃で対抗。
島津義弘は岡城攻略を後回しにして、府内へ向けて進みました。
志賀親次は奪われていた城を次々奪還し、島津軍の背後を脅かします。
この時に、津賀牟礼城も奪い返しています。
その後、豊臣秀吉が九州征伐に動き出したため島津軍は撤退。
島津義弘は志賀親次を「天正の楠木」と絶賛したそうです。
入田宗和は、かつて大友軍を苦しめた緩木城に籠って抵抗します。
しかし、留まる気は無かったようで、島津軍とともに薩摩へ向かいました。
1593年、廃城となりました。
島津軍との戦で抜群の活躍を見せた志賀親次ですが、割とすぐに没落します。
朝鮮出兵で主君・大友義統が敵前逃亡をしたとして、改易処分となります。
志賀親次が、大友義統に小西行長が討死したという誤報を伝えたとされます。
逆に、志賀親次の出世を妬んだ者達により陥れられたとする説もあります。
真相は???ですが、大友家改易により、志賀親次も領地を失いました。
津賀牟礼城は、この時に廃城となっています。
所在地:大分県竹田市入田 GPSログダウンロードページ
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