2013/08/31
細野城/神奈川県愛川町
細野城は厚木と津久井を結ぶ国道412号沿いにありました。訪問日は2013年3月9日です。

▲堀切跡とみられる国道
細野城は中津川沿いにある台地上に築かれていました。下のGoogle Mapの等高線を見ると地形が何となくわかります。そして、その堀切に国道が通されたと伝わります。確かに道沿いに土が盛られていて、土塁っぽいですね。

▲説明板
この国道がカーブする所に白い大きな建物が建っています。その道沿いに写真の説明板があります。
丁度選挙期間中だったのでポスターがありましたが・・・まさか城キチ狙いではないでしょうw一応ボカしておきます。

▲対岸より
この地形を撮りたくて、対岸へ渡りました。今は橋が架かっていますが、天然の要害地形ですね^^
城の中を南北を結ぶ街道が貫いて・・・というのは現代の話。当時はおそらく、街道は川の東側にある県道65号だったと思われます。そちらに有名な古戦場・三増峠がありますので。
◆歴史◆
<築城>
細野城は永禄年間(1557~70年の間)に内藤定行によって築かれたと伝わります。中津川を挟んだ対岸には田代城があり、定行は田代城主・内藤秀行の嫡男です。
田代城は弘治年間(1555~58年の間)に定行の祖父・内藤秀勝により築かれたとされます。田代城の背後には富士居山があり、狼煙台がありました。
内藤氏本家は津久井城主であり、三増峠や中津川の監視を目的に城を築いたと考えられます。1560年代は武田信玄が不穏な動きを見せており、田代城では守備に不安があったのでしょうか。
<三増合戦>
1569年10月、武田信玄が小田原城を包囲しました。小田原城は上杉謙信でも落とせなかった堅城なため、信玄は挑発を繰り返したのですが・・・北条氏は城から出なかったため、信玄は城の周りを焼いて退却しました。
しかし、攻められてそのまま黙っている北条氏ではありません。この機会を狙っていたのでしょう。滝山城の北条氏照と鉢形城の北条氏邦が三増峠に布陣。ここで武田信玄を迎撃し、背後を小田原本隊が衝いて殲滅するという作戦を立てました。これが三増合戦です。
この作戦がはまれば武田信玄もピンチだったのですが・・・作戦を見抜いた信玄は、山形昌景に別働隊を任せ、氏照・氏邦軍を挟み撃ちにしました。これにより武田軍が優勢に。作戦が見破られたことを悟った北条軍本隊は進軍を止めたため、武田軍の勝利が確定しました。
一説には細野城はこの時、武田軍の攻撃を受けて落城したと言われています。戦場から至近距離にあるのに史料には登場しないので、確かな事は今もわかりません。
尚、津久井城の軍勢は三増合戦には参加できませんでした。それは武田軍の小幡重貞率いる別働隊に牽制されたためであったといいます。
<廃城>
廃城時期もはっきりしません。三増合戦の後、田代城主の内藤秀行は出家したそうですが・・・
内藤氏の菩提寺である勝楽寺に1578年の寄進状があるそうです。このことから、定行が家督を継ぎ、1590年の後北条氏滅亡まで続いたと思われます。城主の内藤氏は戦後、帰農したとされています。
所在地:神奈川県愛甲郡愛川町半原
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