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緩木城/大分県竹田市

緩木城は、標高1046メートルの緩木山山頂にあった山城です。
訪問日は2019年12月30日です。

緩木城【1】

緩木山は越敷岳とともに登山者には人気があるようです。
登山口には登山者向けの専用駐車場があります。

緩木城【2】

駐車場から見た登山口です。
入口にはきれいな案内図があります。
ライトな山キチさん向けに手軽に登山が楽しめるようです。
私は山登りはどちらかというと楽な方がいいのですが・・・
ここから城跡までの比高は500メートル程ありますあせる

緩木城【3】
拡大表示

上の写真の案内図です。
2つの山の案内図なので、かなり範囲が広くなっています。
緩木山城のあった緩木山は、図の左端に描かれています。

緩木城【4】

しばらくは舗装された林道を歩きます。
駐車場からおおよそ1km歩いた所で、緩木山への登山道が分岐します。
何も知らなかったので素直に歩きましたが、ここまでなら車でいいです。
ここまでの比高は100メートル程なので、知ってれば乗って来ましたあせる

緩木城【5】

左へ分岐する登山道は、100メートル程で舗装道が終わります。
奥ではUターン出来ないので、左の道に入った所に停めればよさげです。

緩木城【6】

登山道は、全般的には踏み跡を辿る感じです。
山頂までピンクのテープで目印が付けられているので迷いません合格

緩木城【7】

1時間半掛かって、ようやくここまで辿り着きました。
標高は1020メートル程なので、休み休みしながらラストスパートですw

緩木城【8】

ようやく山頂の城跡に辿り着きました。
途中平坦面は全く無かったのですが、山頂はとても広く削平されています。
登っている時は「マジでこの上にお城あったの?」と半信半疑でした。

緩木城【9】

なので、これがあるだけでも「来て良かったラブラブ」と思えました。
当日は雨模様で、遺構もそんなに無いという事前情報。
なので、本当は来るつもりではありませんでした。
でも、時間余るし入口までは・・・の結末です。
ここでもやっぱり黒小悪魔なぽの囁きに敗れましたあせる

緩木城【10】

山頂の北側には、緩い尾根に段々の小さな曲輪が連なっています。

緩木城【11】

東側に出っ張った尾根にも、中くらいの曲輪が並んでいます。
これを見たら「あぁ、やっぱりお城があったんだ」と実感しました。


◆歴史◆

ググっても何だか?なので、某大聖典に沿ってみました♡

1160年、平通盛の家臣・中尾盛秀により築かれました。

平通盛は平清盛の異母弟・教盛の子です。
保元の乱(1156年)と平治の乱(1160年)を経て平家が天下を握ります。
保元の乱以前は、玖珠郡や直入郡は源為朝が活動拠点としていました。
源為朝は源義為の八男で、源頼朝の叔父にあたります。
強弓の使い手として有名でしたが、粗暴なため九州へ追放されました。
しかし、保元の乱で父に呼び戻され、源義為方の主力となりましたが敗北。
捕らえられて伊豆大島へ流されています。

その後、平通盛の領地となり、その家臣・中尾盛秀が派遣されました。
中尾盛秀は、景行天皇が皇祖二神を祀った緩木山の麓に7つのお寺を建立。
平家が滅ぼされた後、大友家に領地を差し出してその家臣となります。
そして、直入郡に入った大友一門の志賀氏に仕えました。
・・・と書きましたが、ググってもこの辺りのお話は出てきません。

竹田市+中尾でググると、中尾八幡社がヒットします。
名前の由来は「神官が中尾氏だったから」とされています。
中尾氏が盛んに寺社を建立し、領民の信仰を集めたことと合致します。
中尾八幡宮は、戦国時代に入田氏が熱心に信仰していたと伝わります。

1584年、大友宗麟に攻められました。

大友宗麟はキリスト教に熱心な余り、領内の寺社を焼き討ちしました。
城主の中尾盛行がその非を諫めると、大友宗麟による討伐を受けました。
大友軍は1万5千の大軍で、寺社仏閣を焼き払いながら進軍。
南北から緩木城を攻めました。
中尾盛行は地の利を活かしたゲリラ戦術で対抗し、大友軍を苦しめました。
そのため大友宗麟は更に援軍を送りますが、険阻なため攻め落とせず。
そこで城を包囲して持久戦に持ち込みました。
すると、兵糧が尽きた中尾軍は度々撃って出るようになります。
しかし、多勢に無勢で次第に兵が少なくなり、遂に中尾盛行は自害しました。

1587年、入田宗和が籠城しました。

入田氏は大友家一門で、鎌倉時代に直入郡入田郷を与えられました。
本拠としたのは入田城という山城で、緩木城の東にありました。
入田宗和の父・親誠は、大友義鑑に気に入られて加判衆を務めました。
入田親誠は大友義鑑の意を汲み、大友義鎮の廃嫡を図ります。
これが引き金となって1550年、二階崩れの変が起きました。
入田親誠はこの政変の黒幕と見なされ、大友義鎮に追われる身となります。
そのため正室の父・阿蘇惟豊を頼りましたが殺されてしまいます。
その子・入田宗和は幼少のため許されましたが、流浪の身となりました。
その後、入田宗和は1578~80年頃、旧領への復帰が許されました。
復帰直後は入田城を居城としましたが、大友宗麟に2度攻められています。

1586年、島津軍が豊後へ侵攻すると、入田宗和(=義実)は寝返りました。
入田宗和は近隣の南北志賀家も誘い、島津軍の案内役を務めました。
しかし、志賀親次だけは頑として誘いに乗らず島津軍に抵抗。
島津義弘率いる大軍を撃退し、岡城を守り切りました。
志賀親次の奮闘を見て、島津軍に寝返っていた者達が次々と帰参。
豊臣秀吉の九州征伐軍が来ると、島津軍は薩摩へと撤退しました。
入田宗和は緩木城に籠り、迫りくる大友軍に抵抗しました。
しかし、支えきれなくなると、島津軍とともに薩摩へ向かいました。
以後、島津家臣となり高岡衆の一家となります。


所在地:大分県竹田市大字神原(緩木山) GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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