2020/01/20
栂牟礼城/大分県佐伯市
栂牟礼城は、平安時代から戦国時代まで続いた名族・佐伯氏の城でした。訪問日は2019年12月29日です。

大分には「牟礼」が付く名前のお城が沢山ありました。
これは朝鮮語の「モレ」が転訛したと考えられています。
この「モレ」は「山」を指すようです。
栂牟礼城へは、舗装された栂牟礼林道で途中まで車で登ることが出来ます。
林道の終点は駐車場になっており、栂牟礼城へはここから徒歩となります。
城跡は写真の右方向にあり、反対の左方向には小田山城があります。

栂牟礼城へ通じる道の入口です。
とは言っても、「道」は途中までしかありません。

登城口から3分で、最初のピークであるここに着きます。
木製の櫓のような展望台のようなモノが中央にあります。
山上の平坦地なので、何も知らないとここが城跡と勘違いしそうです。

栂牟礼城への道は、来た道から見て広場の正反対にあります。
ただ、ここには案内も無く、草に隠れてとてもわかりづらくなっています


広場の奥から先へ進むと、道も案内も何も見当たりません。
ここからは野生の勘、もしくは地図を頼りに進みます。
栂牟礼山の尾根を辿るので、考え方としては真ん中の高い所を進みます。

すると、山城の象徴である堀切様に出会えます

最初の堀切は、どちらかと言うと土橋です。

その先で上がってすぐの所に、次の堀切様が待ち構えています


さらに20メートル程先にも次の堀切があり・・・

また20メートル程進むと4つ目の堀切があります。
どうやらここがメインの登城路のようですね!
念入りに堀切を入れまくっています。

また少し間を空けて、次の堀切が現れます。
二の丸の南西に当たるこの尾根は、5本の堀切で隔てられています。

ここからは傾斜がキツクなります。
二の丸までずっとロープがあり、つかまりながら登れます。

登り切った所が平坦になっており、あと200メートルの案内があります。
この広い平坦地が栂牟礼城の二の丸です。
少し進んだ所に、ちゃんと二の丸の標示があります。

二の丸を奥まで進むと、再びロープの道となります。
途中、小さな堀切もあります


登り切った所に石碑と祠があり、ここが栂牟礼城の本丸です。
この石碑には「史跡 栂牟礼城」と彫られています。
山頂にあり、奥行きは20メートル程の細長い曲輪です。
この一番奥には、麓へと通じる別の山道があります。
◆歴史◆
大永年間(1521-28)、佐伯惟治により築かれました。
佐伯惟治は1527年、菊池家と通じ謀叛を企てたと讒言された人物です。
その言葉を信じた大友義鑑が、臼杵長景に討伐を命じました。
佐伯惟治は栂牟礼城に籠城し、臼杵長景は攻め落とせませんでした。
臼杵長景は佐伯惟治に、自分が大友義鑑に話して疑惑を晴らすと約束。
ただ、その前に一度日向へ落ち延び、時を待つよう勧めました。
佐伯惟治はその言葉を信じ、城を明け渡して日向へと向かいました。
しかし、日向に入ってすぐに土豪に襲われ、尾高智山で自害しました。
この土豪は臼杵長景が差し向けた者達で、すべては謀略でした。
臼杵長景は大友家では加判衆と呼ばれる重臣でした。
なぜ佐伯惟治を陥れたのかが???ですが・・・
1518年、臼杵長景は朽網親満の乱を鎮圧しています。
朽網親満は大友義鑑が家督を継いだ事に不満を抱いていたらしいです。
この時、朽網親満に味方しそうだったのが佐伯惟治と田原親述でした。
田原家は大友家最大の一門で、謀反を繰り返していました。
この頃から、佐伯惟治はマークされていたのかもしれません。
家督は兄の子と伝わる佐伯惟常が継ぎましたが・・・
栂牟礼城は佐伯惟常の兄・佐伯惟勝が入ったまま居座ったと伝わります。
弟が家督を継いだ事に不満を抱き、弟とは常に反対の立場をとっています。
1550年にあった二階崩れの変では、大友義鑑派だったとされます。
この変で大友義鑑が殺されており、その後どうなったのかが???です。
1556年、佐伯惟教が伊予へ逃れました。
小原鑑元が他紋衆を糾合し、大友義鎮に謀反を起こしました。
他紋衆は大友一門以外を指しており、大友一門は同紋衆と呼ばれていました。
大友家ではかねてから両派の争いが絶えませんでした。
二階崩れで世を去る直前、大友義鑑は加判衆は半々にするよう遺言しました。
しかし大友義鎮は、次第に他紋衆を排除するようになりました。
乱は同紋衆により鎮圧され、小原鑑元らが討たれました。
この時、大友義鎮は関与していなかった佐伯惟教の討伐を命じました。
佐伯惟教は抵抗せず、一族をまとめて伊予へ脱出しました。
1569年、佐伯惟教が大友家に帰参しました。
この頃の大友家は、毛利元就との争いが続いていました。
大友宗麟は水軍の将・若林鎮興を付け、大内輝弘を周防に送りました。
この時、毛利元就は主力を率いて北九州で暴れていました。
そこへ大内家の人間が現れたため、大内旧臣達が集まり蜂起しました。
そのため、毛利軍は撤退せざるえを得なくなりました。
大内輝弘は戻ってきた毛利軍に討たれてしまいましたが・・・
大友家は北九州で毛利軍に奪われた地域を回復しました。
大友宗麟が佐伯惟教を呼び戻したのはこの頃です。
毛利家との決戦に備え、大友家には佐伯家の水軍の力が必要だったそうです。
佐伯惟教は豊後に戻ると、戸次鑑連に代わって加判衆となります。
さらに、翌年には栂牟礼城が返還されました。
1578年、佐伯惟教が耳川の戦で討死しました。
大友宗麟(=義鎮)が、家臣団の反対を押し切って日向へ侵攻しました。
全軍を率いていたので、偉い人が集まり過ぎて作戦系統はボロボロでした。
そのため、せっかく作戦が決まっても「俺、そんなの嫌だ」となり・・・
主張を退けられた田北鎮周が「明日潔く突撃して死ぬ」と言い出しました。
翌朝、実際に田北軍は勝手に進撃し、島津軍へ突撃。
こうして大友軍は、てんでんバラバラに島津軍へ突っ込んだのでした。
その結果、多くの重臣が討死する壊滅的敗北を喫しました。
この時に佐伯惟教・惟真父子も討死してしまいました。
家督は佐伯惟真の子・佐伯惟定が継ぎましたが、まだ9歳でした。
1586年、佐伯惟定が島津軍相手に活躍しました。
島津軍が豊後を制圧するため侵攻しました。
栂牟礼城の佐伯惟定に、島津家久から降伏勧告の使者が来ました。
佐伯家では降伏するか徹底抗戦するかで意見が割れましたが・・・
佐伯惟定の母親のひと言で徹底抗戦に決まりました。
ただし、佐伯惟定はまだ若いため、采配は客将の山田宗昌に任されました。
山田宗昌の策は面白い程ハマリ、島津家久軍を撃破。
先を急ぐ島津家久は、佐伯を避けて臼杵城の大友宗麟を目指しました。
佐伯惟定と山田宗昌はその背後を脅かし、各地で奪われた城を奪還。
島津軍の輜重隊を全滅させるなど、大活躍しました。
豊臣秀吉の九州征伐軍が来ると、佐伯惟定が先導を務めています。
戦後、豊臣秀吉は佐伯惟定の活躍を激賞し、感状を与えています。
1593年、大友家が改易されました。
朝鮮出兵で、大友義統が敵前逃亡したとして改易されました。
これは平壌城の戦で、小西行長が戦死したという誤報から始まります。
小西行長の援軍として平壌城に向っていた大友義統はこの誤報で撤退。
さらに、守っていた城まで放棄してしまったのでした。
大友義統はすぐさま名護屋城へ召還され、そのまま改易処分となりました。
1601~1606年の間に廃城となりました。
大友家改易に伴い、佐伯惟定も領地を失いました。
その後は豊臣秀長・秀保に仕え、その没後は藤堂高虎の家臣となりました。
佐伯家は明治まで藤堂家に仕え、津藩で家名を残しました。
佐伯惟定が去った後、佐伯は豊臣家の蔵入地となりました。
代官は、日田・玖珠郡を与えられた毛利高政でした。
毛利高政は関ヶ原の戦では当初、西軍に属していました。
しかし、日田を黒田官兵衛に攻められ、途中で東軍に鞍替えしています。
戦後、西軍に属していた事は咎められず、佐伯2万石へ領地替えとなりました。
佐伯に入った毛利高政は、新たに佐伯城の築城を始めました。
佐伯城は1606年に完成し、この時までに栂牟礼城は廃城となりました。
所在地:大分県佐伯市弥生井崎 GPSログダウンロードページ
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