2020/01/19
八幡山城/大分県佐伯市
八幡山城は現在、八幡神社がある山です。訪問日は2019年12月29日です。

大きな道沿いにある神社なので、場所はとてもわかりやすいです


割と大きな神社なので、駐車場も広さタップリです。

神社の背後をよじ登るらしいのですが・・・
この石段が何かのバツゲームにしか思えませんでした。
別に私が邪悪な思念体という訳ではありません


そんな嗜好の城キチのために、左脇にはスペシャルな参道があります。
おそらく、お城だった時の登城路だと思います。

この山道には、ドングリがビッシリ落ちています。
食うのに困ったら、ドングリ集めて食べられそうだなんて考える位に。
このドングリ、実はここに沢山生えている希少種のハナガガシのものです。
ドングリ図鑑で見ると、細長くて下がキュッと締まっているのが特徴です。
ブナのドングリがよく似ていますが、下がややボテっとしています。

ドングリを眺めている内に、八幡神社に着きました。
私の目的はこの背後なのですが・・・
何となくガードがきつそうで、斜面をよじ登るのが躊躇われました。
私にだって、そんな気持ちになる事くらいあります


そう思い、社殿の左奥へ進んでみました。
こちらにはトイレがあるのですが、斜面を真横に進む道がありました。
・・・道、見えますよね?




そのまま上りもせず下がりもせずまっすぐ進むこと60メートル程。
左下に土橋が現れました

藪に埋もれて気づきませんでしたが、左脇は堀切でした。

土橋の向こう側は細長い平坦地が続いており、2郭だったとされます。

土橋の所まで戻り、今度は上を見上げます。
ここが尾根になっており、斜面直登な感じではなくなります。
うっすら何となく見えた道を辿って正解でした


尾根づたいに登ると、曲輪の端っぽい感じが見えて来ました。

上がると平坦面でした

が、まだまだ尾根が続きます。

この上が一番高い所で、主郭だった所です。
噂通り、奥宮の小さな祠がありました。

さて、ここでは東と南の尾根に堀切ちゃんがいらっしゃる噂です。
まずは東の尾根を攻めました。

東の堀切は、オーソドックスに尾根を分断しています。

深さは人の背丈程なので、そんなに深くはありません。

南側にも堀切があるというので回り込みましたが、尾根が見当たらず・・・
ダメかと思ったその時、数メートル下に横堀っぽいのが見えました。

主郭の城塁に沿って掘られており、私の感覚では横堀???な感じです。
◆歴史◆
1441年、佐伯惟世によって築かれたとされます。
佐伯惟世は、宇山城や八幡山城を築き大内軍を破ったとされます。
大友持直が少弐満貞と組んで大内盛見を討ち取りました。
そのため幕府から討伐され、姫嶽で敗れて消息不明となったのが1435年です。
以後は幕府が推した大友親綱が大友家当主となっています。
なので、大内軍が豊後を攻める理由が???です。
ただ、大友家は2つの系統が交互に当主となるルールだったそうです。
そのため、争っても滅ぼさなかったような所が感じられます。
大友親綱は後に大友持直の弟・大友親隆に家督を譲っています。
ただ、その後も大友親綱は大友親隆とは争っていたようです。
なので、大内軍侵攻は討伐というより、介入だったかもしれません。
1586年、佐伯惟定が本陣としました。
という事で、常に誰かが居る訳ではなく、陣城だったかもしれません。
1586年、島津軍が大友宗麟を討つため侵攻しました。
島津軍は2方面から攻め込み、日向ルートは島津家久が総大将でした。
栂牟礼城主・佐伯惟定にも降伏勧告が送られ、佐伯家中は紛糾しました。
しかし、最終的には徹底抗戦でまとまり、島津家からの使者を襲っています。
佐伯家では伊東家臣・山田宗昌を客将に迎えていました。
佐伯惟定はまだ17歳と若かったため、山田宗昌に指揮が任されました。
山田宗昌は佐伯惟定を八幡山城に置き、動かないよう献策。
自らは八幡山城の南にある波越峠で島津軍を迎え撃ちました。
栂牟礼城に守備兵を残したため、兵力は島津軍の半分程しかいませんでした。
しかし、山田宗昌の策がハマり、島津軍に圧勝しました。
島津家久は佐伯を落とす事は無理と諦め、迂回して臼杵城を目指します。
佐伯惟定は、島津軍に寝返っていた柴田紹安の星河城を攻め落としました。
さらに佐伯へ進軍して来た土持親信の軍勢を破って朝日嶽城を奪還。
島津軍の輜重隊を壊滅させるなど、島津家久の背後を脅かし続けました。
後に援軍に駆け付けた豊臣秀吉から、この時の活躍を激賞されています。
所在地:大分県佐伯市長谷 GPSログダウンロードページ
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