2020/01/18
森藩陣屋/大分県玖珠町
森藩陣屋は、瀬戸内海の元海賊・来島氏が築いた江戸時代の陣屋です。藩主の名前から久留島陣屋とも呼ばれています。
訪問日は2019年12月28日です。

南側の三島公園から見た陣屋跡です。
厳密に言うと、三島公園には久留島庭園や末廣神社なども含まれています。
この公園は1974年に玖珠町都市公園として認可され整備されたものです。

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公園の説明板です。
森藩のことも書かれ、案内図もあるので載せました。
本当はもっと載せたい図があったのですが・・・
真ん前にナンバープレートの外された廃車があり撮れませんでした


グラウンドの右奥に、思わせぶりな石畳があります。
これは陣屋とともに築かれた御長坂で、色々仕掛けががあったそうです。

御長坂を上がり鎮守の杜に入ると、壮大な石垣が現れます。
これが「お城のようだ」と噂の陣屋の石垣です。
江戸時代に三島神社の改築を願い出て、どさくさに紛れてやってます。
(末廣神社は明治時代に合祀されてからの名前です)
城主格ではない大名の「一城の主」に対する執念が感じられます。

その石垣の上にあるのが末廣神社です。
陣屋が無くなってから移されたのかと思っていたら、そうではなさそうです。

城郭風になったのは、1837年に三島神社改築の時でした。
三島神社自体は、初代が陣屋を構築した時に勧請されています。
今の本殿は1828年9月竣工したことがわかっています。
城郭風に改修する前からここにあったという事ですね。

本殿を囲む石垣です。
さすが江戸時代だけあって、隙間の無い積み方をしています。

神社の周りは、このような石垣で囲まれています。
陣屋を囲まなかったのがミソなのかもしれませんw

神社の左奥には、清水御門があります。
現存の門で、その下には「池」があります。
藩主様はこの光景がお気に入りだったかもしれません


清水御門から右へ進んだ奥には丸木御門があります。
すぐ外は住宅街ですが、間に深い堀跡があります。

門は石垣の縁にあり、かつては長塀があったかもしれません。
◆歴史◆
1601年、来島康親により築かれました。
来島康親は、瀬戸内海を席捲した海賊・村上氏の一族です。
関ヶ原の戦で西軍として戦ったため、一時領地を失いました。
その後復権し、海の無い豊後森に領地を与えられ陣屋を築きました。
父・村上通総は、実子の無かった河野通宣が跡継ぎに望んだ程の人物でした。
しかし、河野家は河野通直が継ぎ、本家の村上武吉とも対立します。
そのため、中国地方へ進出してきた羽柴秀吉に助けを求め寝返りました。
本能寺の変があり羽柴秀吉が撤退すると、本拠地・来島城を追われます。
村上通総は大坂へ移り、豊臣秀吉から「来島」と呼ばれ厚遇されました。
この事がきっかけとなり、来島と改姓しています。
その後、四国征伐での大活躍により旧領を回復。
来島家は、豊臣秀吉にとても大きな恩があったのでした。
関ヶ原の戦では西軍に属した来島長親は、領地を没収されました。
しかし、朝鮮出兵で父親と縁のあった福島正則のとりなしで家名は存続。
得意な海は無いものの、旧領とほぼ同じ石高の玖珠郡を与えられました。
1万4千石ですが無城格のため、城を持つことが許されませんでした。
そのため、角牟礼城を破却し、麓に陣屋を築きました。
森藩を立藩した来島長親は、来島康親と改名します。
2代目藩主・来島通春は、幕府の天下普請による財政難を乗り切ります。
姓を来島から久留島に改めたのは来島通春の代です。
久留島通春は老臣を遠ざけ、積極的に優秀な人材を登用しました。
古くからの腐れ縁を断ち切るための改姓だったのかもしれません。
1837年、第8代藩主・久留島通嘉が石垣を築きました。
久留島通嘉は藩政を改革し、専売制や上米制で財政を立て直しました。
藩校・修身舎を創設するなど、藩主としてはかなり優れていたと思われます。
また、三島神社の造営を名目として、陣屋をお城のように整備しました。
石垣や庭園、栖鳳楼を築き、清水御門もこの時に建てられました。
無城格の大名になぜこのような事が出来たのかは???です。
時代背景を追うと、江戸幕府は11代将軍・徳川家斉の時代でした。
寛政の改革の頃の重臣達は歳をとり、第一線から退きつつありました。
そんな中、徳川家斉は側用人の水野忠成を重く用いています。
水野忠成は前代で禁じられた賄賂を公認したため、幕政が腐敗しました。
綺麗事を並べ過ぎた反動だったのかもしれません

歴史の授業で習った大塩平八郎の乱が起きたのも、1837年の出来事です。
・・・多分、そういう事なんですねw
1871年、廃藩置県により森県となりました。
森県となってからも、陣屋は森県庁として使用されました。
翌年、三島神社は他の神社と合祀され、末廣神社と改名されました。
その後、大分県に編入されてからも、役場の庁舎として利用されました。
陣屋の建物は昭和初期までは残っていたそうです。
所在地:大分県玖珠郡玖珠町大字森(末廣神社)
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