2020/01/18
一ツ戸城/大分県中津市
一ツ戸城は、破却された石垣がある山城です。訪問日は2019年12月28日です。

登城路は北と南の2つのルートがあります。
まずは北側から。
一ツ戸トンネルの東側に、目立つ石垣があります。
この石垣は神社のもので、ここに一ツ戸城の幟が立っています。
車はこの付近に停め、獣避けフェンスから中へ進みます。

フェンスの先は林道なので、車で走ることは出来ます。
ただ、停めることは出来ないので、歩いた方が無難です。
林道を600メートル進んだ所に、城跡への登山道入口があります。

登山道は近年整備されたそうで、道幅は広く、かなり歩きやすいです


幅の広い道はココで終わりです。
もうすぐ稜線ですが、斜面には虎ロープが。
ここからは道は無く、ロープにつかまりながらの直登です。

上がった稜線の城側です。
奥にはハシゴも写っています。
岩のゴツゴツした稜線上を進みます。
後付けの登城路なので、こういう事も


ただ、割とすぐにこんな感じになります。
左側が城塁で、時々石垣っぽいのが見えました。
また目のビョーキかと思っていましたが、本物でしたw

城塁が途切れると、帯曲輪っぽかった平坦面が広くなります。
ここが本丸南側の曲輪です。

途切れた城塁を真正面から見た所です。
上下二段の曲輪があり、下が腰曲輪、上が本丸です。

この城塁には、自然ではなかなかこうはならない石が見られます


本丸南側の大きな曲輪の奥にあるのが二の丸です。
二の丸手前から本丸側を見るとこうなっています。
幅の広いまとまった平坦面となっています。
本丸と二の丸の間のココって、名前無い方が不思議な気がします。

二の丸の手前左側には、虎口跡の標示があります。
両側を石の列で囲まれた石段があります。
上から見てもよくわかりませんが・・・

後ろから見たらよくわかります

この下に道があったハズなのですが、消えてしまっています。
一ツ戸神社辺りから登って来る道があったものと思われます。

二の丸は、先ほどの曲輪の先端が一段高くなった所です。

ここからは、旧日田往還である国道212号を見渡すことが出来ます。
北東にある平田城も、同様に日田往還沿いにありました。

続いて、いよいよ本丸です。
先ほどの城塁には、矢印で案内がついています。
破城されたのか、上がる道は不明瞭です。

本丸直下の腰曲輪です。
本丸へ上がる前に、ここを通ったと思われます。
城塁側には、大きな石が散乱しています。

城塁には、ほんの一部分ですが石段が残っています。

その上にあるのが本丸です
いつも通り、広い平坦面です。
とても整備されており、木が伐採されて明るいです。

下りは、もう1本の登城路を通りました。
こちらは城跡の南側で、昔からある登城路です。
城塁に沿って戻ると、虎ロープのある道が下っています。

途中で虎ロープの無い道が分岐していますが、それらは無視して下さい。
それらの道は、途中で途切れて進めなくなります。
・・・と、ケーケンシャは語ります

虎ロープがある内は、素直にそちらへ下ります。
ただ、虎ロープは途中までしかありません。
こちらから登る場合は、ここを探し出せれば本丸まで行けます。

虎ロープが無くなると、そこから先はなだらかで広い谷底です。
こちらから登る方は、とりあえず真ん中を奥へ進みます。
案内が全く無いので不安になりますが、虎ロープ手前に白い標示があります。
下る場合も、真ん中を真っすぐ下ります。

すると、谷底の右側(登りの場合は左側)に水路が現れます。
水路じゃない所は、石垣で数メートルの段になっています。

数メートルの石垣の段です。
こんなのが5、6段続きました。
もしかしたら、お城だった時の屋敷跡でしょうか?
野面積みで規模が大きく、農民の仕業には見えません。

南側の登城口です。
民家へそのまま入るように見えますが、空き家なので大丈夫です。
足元の石垣は立派ですが、奥のものとは積み方が違います。
空き家の足元に小さな案内があるだけなので、見落としそうです。
◆歴史◆
友杉民部により築かれました。
友杉民部が中間荘の地頭となり、その居城として築いたとされます。
その時期が、現地の説明板や諸兄のサイト様では1192年としています。
この頃豊前に宇都宮氏が入っており、その一族とするサイト様もあります。
他の年代としては、中津市のサイトでは1377年です。
足利義満の時代に友部民部が地頭になったとしています。
どちらにしても、友部民部以降の城主は、名前がサッパリわかっていません。
戦国時代は友杉左馬助、中間統胤が城主でした。
友杉左馬助は1540年代から1580年代の城主です。
この頃の豊前では、大内氏と大友氏が争っていました。
1551年、大内義隆が陶隆房の謀反により自害。
1557年、その陶晴賢(=隆房)が毛利元就に敗れ、大内家が滅びました。
大内氏の領地は実の兄である自分が継ぐべきだと、大友義鎮が領有権を主張。
豊前の国人衆は抵抗しましたが、大友義鎮に攻められ服属した時期です。
友杉左馬助は中間房俊、大江親貞、一戸与市と名前を使い分けていました。
理由は???ですが、これが代々続くと城主不詳になりますよね?w
中間統胤は黒田家に従いました。
中間統胤は友杉左馬助の子です。
豊臣秀吉の九州征伐後、豊前では城井鎮房が黒田官兵衛に討伐されました。
この時、中間統胤は家中の意向をとりまとめ、黒田家に降伏しました。
その際に城井鎮房から慰留されますが、これを拒否しています。
この時の使者が黒田家に捕えられましたが、却って信頼を増したとされます。
関ヶ原の戦の後、黒田家が筑前へ移ると従い、松尾城主となっています。
筑前六端城には譜代の猛将が配置されましたが、中間統胤は例外でした。
それだけ黒田如水から信頼されていたという事ですね。
細川家の城となりました。
黒田家と入れ替わりで、豊前に細川忠興が入りました。
この時に両家で色々と揉めましたが・・・
一ツ戸城は細川家臣の荒川少兵衛が城主となりました。
関係がよくわかりませんが、細川藤孝の甥とするサイト様もあります。
荒川輝宗と書いているサイト様もありますが、ちょっと???です。
中津城と並ぶ下毛郡の拠点でしたが、1615年一国一城令で廃城となりました。
所在地:大分県中津市耶馬溪町大字宮園 GPSログダウンロードページ
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