2020/01/16
長岩城/大分県中津市
長岩城は、見所満載の山城です。はじめに書きますが、超長くなります。
訪問日は2019年12月28日です。

長岩城は、この辺りでは間違いなく一番凄い所です。
県道2号沿いには、長岩城の幟がそこかしこにあります。
登城口には、見学者専用のトイレ付駐車場があります。

城跡へは、駐車場の脇からまっすぐ山へ進みます。

手前には、堀代わりになったであろう川が流れています。
すでにこの時点でとっても雰囲気が溢れています


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橋を渡った真正面に、城跡の案内図があります。
私にはこれくらいザックリな方が頭に入ります。
キャパそんなもんなので


案内図の前の坂道を登ると、透け透けの城門が現れます。
開けたら閉めてネ♡、の獣避けフェンスです。

開けてすぐの所に、一之城戸の案内が。
矢印は城跡とは反対方向を指しています。
行こうか、行くまいか、、、などという逡巡は、城キチにはありません。
行く!の一択ですw

・・・とは言え、上の案内の所からすでに見えていました。
外側を低い石積みで囲まれています。

冷静に落ち着いて見れば、石で出来た虎口です。
呼び方が何となく古代城っぽいです。
なぜなのかは、そのうちにわかります。

一之城戸から、谷沿いの道を進みます。
山側には石垣があり、数メートルおきの段になっています。
はじめは段々畑かと思っていましたが、石垣は野面積みです。
おぉ!と思って大御所様の図を拝見すると、居館と書かれていました。
確かにここは、城跡の入口です。
お屋敷兼櫓な感じで、横合いから攻撃出来そうな配置です。

居館の石垣を過ぎると、斜面に「三日月塹壕」の標示がありました。
三日月形に竪堀っぽいのがある、らしいです。
ここに限っては、心の目ヂカラが必要だと思います。

今度は正面に、斜めな登り石垣が現れます。
ココが二之城戸です。
正面の石垣に目が行きガチですが、左側にも石垣があります。

左側の石垣は半円形に組まれています。
右側の石垣で敵兵を左側に寄せ、ココから狙撃するんですね。
足元は大きな石がゴロゴロの悪路なので、かなり効いてると思います。

長岩城には「砲座」と呼ばれる石塁がたくさんあります。
城戸という名前ですが、役割としては砲座の1つでもあると思います。
その中で最も大規模なのがココです。

さらに進むと、斜面を登る長い石塁が見えます。
これが三之城戸です。

かなりの規模で、圧倒されます。
ココには全国的に見ても珍しい登り石垣がたくさんあります。
最近見てきた対馬の古代城・金田城にも、こんな感じのがありました。

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三之城戸のすぐ先で、道が左右に分岐します。
右が本丸、左が陣屋と石積櫓です。
いつもなら本丸は最後ですが、今回は本丸側から攻めました。

本丸側への道は、三之城戸に沿っています。
なので途中、かなり近くで三之城戸の石塁を見ることが出来ます


さらに登ると、西之台への道と本丸への道に分岐します。
ここでは西之台方向へ進みました。

西之台へは、道はありますがほぼ直登です。
細かい九十九折れの道を登り切ると、そこからは一直線になります。
この感じは、私の大好きな堀切様です


堀底を登り切ると、そこから細尾根を登る感じになります。
ただ、この細尾根には仕掛け満載で、土塁と堀切が3セット続きます




一番高い所は広くなっていて、西之台の標示があります。
左側は土塁で、すぐ外側には堀切があります。
稜線上で本丸に通じるため、かなり厳重に備えたんですね!

西之台では、堀切とは別方向の端っこにも石塁があります。
考えられ得る様々な方向に対して、万全の備えをしています。

西之台の本丸側です。
こちらはいったん坂を下ります。

西之台と本丸の間の一番低い鞍部は、両側を石塁で囲まれています。
ここからの侵入も想定していたんですね。

この石塁の三之城戸側に、虎口があります。
下をのぞき込みましたが、上がってくる道は見えませんでした。

鞍部からは、本丸へ向けて再び尾根を登ります。
見上げると白い札がチョコチョコ見えますよね?
これらの所にはそれぞれ堀切があります。
いつもは1つ1つ載せていますが・・・・
いつも通りにすると、写真が膨大な枚数になってしまいます


登り切ったココが本丸です。
上下2段になっていて、下段は帯曲輪のように回りを囲んでいます。
・・・わかりやすく例えると、目玉焼きです


その白身の東端に、四角い石積みが2つ並んでいるのが目立ちます。
ココが東之台へ通じる道のある虎口です。

虎口からは、延々と続く石塁が見えます。
「〇之城戸」のような名前はありませんが、城内最大の登り石塁です。

黄身の外周では、一部このように石垣が見られます。

黄身の北側にある虎口です。
かなり痕跡的ではあります。

黄身(本丸上段)の様子です。
直径10メートル程の円形で、石碑や案内図などがあります。

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本丸にある図です。
西之台から来ると、この図の左下の角から上がってくる感じになります。
辿ったルートは左下から腰曲輪を反時計回りで回り、左上から本丸へ。
左上の所に虎口の標示がありましたが、この図では描かれていません


今度は本丸右下の虎口から出て、石塁に沿って下ります。
虎口の10メートル下から振り返ると、地面に石が散乱しています。
虎口も石塁も綺麗に残っているので、何の石なのかが気になります。
元々の形を想像出来る程の眼力が欲しいです


石塁は、竪堀に沿ってず~っと続いています。
その真ん中に、馬蹄形の所が1か所ありました。
長岩城では要所要所にある砲座です。
真ん中辺りの坂がちょっとキツクなる所に構えています。

東之台まで下り振り返ると、石塁が延々と続いています。
登り石垣の規模としてはかなりもものです。
朝鮮出兵で見てきた影響でしょうか?

東之台は本丸からの石塁が、そのまま虎口になっている曲輪です。
西之台とは異なり、かなり広々としています。

本丸から続いている石塁は、ここで終わります。

下から見上げると、石塁がそのまま石垣の役割を果たしています。
本当に効率の良い造りです。

本丸から下り、元の分岐の所まで戻ってきました。
今度は陣屋や石積み櫓の方へ進みます。

陣屋は谷間の広くなっている所を、石塁で仕切ったスペースです。
陣屋というのでもうちょっと平らかと思いましたが、削平は緩いです。

石塁の右側に「砲座→」なんて案内がありました。
見ちゃうとカラダが勝手に引っ張られます。
引っ張るモノの正体は、きっと見えない方が幸せなのでしょう


こちらは帰りに寄ったのですが、反対側にも砲座があります。

石積み櫓へは、陣屋の奥へ進みます。
この感じ、山城らしい直登ですw

山肌を登り詰めると、目の前に岩の壁が立ちはだかります。
ここにステンレス製のハシゴがあり、手前に石積み櫓の説明板があります。

ハシゴを上がった所です。
岩壁は屏風岩のようで、上幅は2メートル弱程しかありません。
この写真の左奥が弓型砲座、右が石積み櫓です。
まずは石積み櫓へ。

細~い屏風岩の上を、落ちないように慎重に進みます。
途中、ハシゴで下る所もあり、だいだいロープが付けられています。
結構下がるな~なんて思っていると、ちょこんと上がっている所に出ました。
松の木に隠れていますが、一番高い所にちょっとだけ見えています


石積み櫓の内部です。
湾曲した砲座で、ここの特徴である銃眼が3つ開いています。
中なら覗いて見ましたが、視界は良くありませんでした


石積み櫓の先から見た所です。
細い尾根上にあるので、撮れるのは手前か奥かの二択です。
石積み櫓が一番高い所にあるので、どちらも見上げるしかありません。

そこで、持参したドローンで上から目線ショットを撮りました。
そよ風程度でしたが、軽いので流されなかなかコントロールが難しい

何とか、上から目線の1枚を撮ることが出来ました


梯子を上ってすぐの所から、石積み櫓じゃない方が弓型砲座です。
そちら側に入ってすぐの所に、尾根上をなぞるように石塁が少しあります。
貴重な遺産だから触るなと書いてあるので、木に掴まりながら進みました。

弓型砲座へは、岩むき出しの細尾根を辿って行きます。
もはや「道」とは呼べない、完全自然地形です。
房総半島にはこんな細尾根を繋いだお城が沢山あったのを思い出します。
両側とも断崖ですが、若干傾斜が緩い右側に寄って進みました。
ただ、高所恐怖症の私でも、怖さを感じる程ではありませんでした。

ちょっと広い所で回りを見渡したら、耶馬渓らしい奇岩に囲まれています。
そんな中で見えたこれが、先ほどの石積み櫓です。
真横から見ると、細っそい尾根の盛り上がった所を押さえています。

細~い岩の尾根が二股に分かれるココに、弓型砲座の文字があります。
きっとこっちなんだろう?と思って近づきました。
「弓型砲座」とだけ書かれていますが、ここではないのは明らか。
きっと矢印が描かれていたのでしょうが、もはや完全に見えません。
こっちだよ!と、上から来た人への案内なのか。
あっちだよ!と、下から来た人への案内なのか。
解釈によって、その方向は丸っきり変わります。
賭けに出て下りてハズレたら、戻って来るのが面倒だ・・・
ということで、確実に辿り着ける東の林道へ回ることにしました。
※後からGPSログを読み込んで確かめたら、「上から来た人への案内」が正解でした。

林道から弓型砲座への入口がココです。
林道の入口は派手に案内がありましたが、ここは見落としそうです。
広い離合場所が下と上にあり、その端に車を停められます。
私は上に停めました。

大きな岩の脇を辿ると、谷間を埋める石塁があります。
主要部からは離れていますが、ここも城の一部なんだと実感します。

石塁を過ぎたら、今度はココを登ります。
岩むき出しの細尾根で、ボロボロの虎ロープが残る鉄柱が並びます。
この感じは、石積み櫓方向から来る時と同じです。
危険度はどちらもあまり変わらないような気がします


ロープ無し岩尾根を登った所に石塁が現れました。
これがかの名高い弓型砲座です。
この左脇に、簡単ではありますが説明板があります。
横に逃げられないココで、上から狙い撃ちするためのものですね!

狭い岩場の上にあるので、地表からだと撮れる角度が限られます。
下から見上げるか、真横から撮るかの2択でした。

なので、弓形砲座も上から撮ってみました。
しかし、ここでも風の影響でなかなか撮れず。
そんなに強くないそよ風程度たったのですが・・・
流されないようにしつつ、全体が写った数少ない写真の1枚です。
本当はもうちょっと斜めな感じで撮りたかったです。
なんて、贅沢いっちゃぁイケマセンね

真上から撮れたことで、形がハッキリ撮れました^^
◆歴史◆
1198年、野仲重房により築かれたとされます。
野仲重房は豊前守護となった宇都宮宗房の三男です。
1195年に下毛郡野仲郷を与えられ、はじめは尾屋敷城を居城としました。
尾屋敷城(別名・筑久江城)については???です

長岩城は以後、野仲氏が滅びるまでその本拠となりました。
野仲氏は宗家の城井氏(=宇都宮氏)とともに、独立勢力でした。
両家は行動を共にすることが多かったようです。
城井氏は豊前守護も務めた家柄でしたが、南北朝時代に没落。
以後は周防の大内氏に属しました。
大内氏が滅びた後、抵抗したものの大友氏に屈服します。
大友宗麟が耳川の戦で大敗後は、島津氏に従うようになりました。
1588年、廃城となりました。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐により、島津義久が降伏しました。
城井鎮房は豊臣秀吉に応じたものの、病と称して自身は出陣しませんでした。
そのため不興を買い、伊予への移封や小倉色紙を差し出すよう命じられます。
しかし、城井鎮房が拒否したため、黒田官兵衛が討伐を命じられます。
野仲鎮兼は城井鎮房に従い、黒田軍と戦いました。
支城は次々に攻め落とされ、三昼夜の激戦の末、長岩城は落城しました。
野仲鎮兼は自害し、落ち延びた嫡男も内応した家臣に殺されてしまいました。
戦後、野仲氏の領地は黒田家筆頭家老・栗山利安に与えられました。
栗山利安は平田城を居城としたため、長岩城は廃城となりました。
所在地:大分県中津市耶馬溪町川原口 GPSログダウンロードページ
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コメント
おぉ~!
僕は体力的及び時間的に行けませんでしたが…。
この城は僕が訪れた城の中で、最も特異な城です。
今迄の城の概念は全く通用しませんでしたから。
2020/01/16 06:33 by syunpatsuryoku1号 URL 編集
Re:おぉ~!
「奇城」とも呼ばれているようですね。陣屋跡は何となく城井谷城っぽかたですが。朝鮮出兵以前に廃城なので、あちら出身者が関与した可能性大です。時間は余裕を見てたのに足りず、馬場を諦めています
2020/01/16 17:56 by なぽ URL 編集