2019/12/27
布沢城/秋田県三種町
布沢城は、道が埋もれた山城です。訪問日は2018年4月14日です。

城跡への入口です。
県道から山へ向かって一直線に道が伸びています。

上の写真の真ん中に写っている白い板がこれです。
かな~りザックリですが、一応説明板があります


さて、城跡に通じる道は誰も紹介していません。
なので、登りやすそうな所からの直登となります。
城跡の外周の道から、草が少ない + 傾斜が緩そうな所からアタックです。
下の地図の赤い軌跡の左端から見た斜面がココです。
行けそうな感じですよね?

直登し始めてすぐに、緩い感じの谷に出ます。
とりあえず、谷底に沿って進んでみました。

すると、人工的に造られた感じの段差や坂道が見えて来ました。
麓からの道は見当たりませんが、往時からココを通っていたようです。

細長い地形に1メートル程の段差があります。
これ、段になった曲輪ですよね?(*^▽^*)

上がってみると、ちゃんと平らに均されています。

高い所から振り返ると、ちゃんと段差になっているのがわかります。

こうして高い所へ、高い所へと辿り続け、一番高い所がココでした。
曲輪としての形は不明瞭ですが、一応平らにはなっています。
ここからもと来た方向を見ると、数メートル下に2段の曲輪が見えました。
高低差がかなりあったので、そちらには下りませんでした。

一番高い所に辿り着いたので、城跡の形をなぞるよう歩いてみました。
今回は時計回りです。
回り込むように大回りで進むと、堀切がありました。
下の地図では3つ青い線を入れていますが、これは真ん中のものです。

その先は細い尾根のようになっているので、次もありそうな予感


なるべく平らな方へ進むと、2つ目の堀切がありました。
その先は大きく右へ曲がる細尾根となっていました。
そのまま下りられると思って進みましたが・・・
下の地図の右下の先端部で傾斜がきつくなりUターンしました。

隣の尾根も辿りましたが、同じく傾斜がきつくなりUターン。

先ほどの堀切まで戻り、まさかの登り直しとなりました。

一番高い所(おそらく主郭)まで登り直したら負け???
何となく「負け」は嫌で、外周下に沿って時計回りに進みました。

すると、主郭の下にも堀切が

下るつもりで下りられず、戻って来たらまさかの出会いでした


堀切の先も細尾根になっていたので進むと、下の方に道が見えました。
これは下りられる!と確信した瞬間です。

その先にちょっとした段差があり、谷底っぽい所に出ました。

そこからVターンする感じで、下に向かって真っすぐな道がありました。
すぐ下には田んぼが見えるので、間違いありません^^

そのまま真っすぐ進むと、道はツル草の藪に埋もれていました。
しかし、3メートル程先には地面が見えています。
ゴールは目の前に見えているので、ココは迷わず藪を掻き分けます


藪を掻き分けて振り返った所です。
この中に道があるなんて、誰も思いませんよね?w
◆歴史◆
築城時期は不明です。
ググって出てくる城主は、説明板にも記されている小山内長門守だけです。
小山内長門守でググると、1件だけ、見性寺についてのブログが出てきます。
そこに載っている見性寺の縁起では、坂上田村麻呂の家臣が築いたとあります。
城の構造は、西側はただ段を重ねただけのシンプルな造りです。
もしかしたらもしかするかもしれません。
小山内長門守は、城を築いた中津六郎昌則の子孫という事になっています。
中津六郎を少しだけ調べてみました。
やはり坂上田村麻呂の配下で、蝦夷の勇者・阿計留を討っています。
その場所が、阿計留の顔の特徴から「長面」と名付けられています。
1523年5月3日に落城しています
小山内長門守は檜山安東家一門の大高相樸守と小競り合いを繰り返します。
相手が勝ち目無さそうな相手なので、何故そうなっちゃったのかは???です

そして1523年5月3日、大高相模守の奇襲攻撃により布沢城は落城。
時期的には檜山安東家が盛んに津軽へ出陣していた頃です。
その軍役負担の重さから、湊安東家が檜山安東家と対立していました。
領民に重い年貢を課す事に堪えられなかったのでしょうか・・・
小山内長門守は長面村(場所がわからず)へ逃れ、帰農しています。
ご先祖様が勇名を馳せた所へ逃げたんですね!
・・・という事で、この時に廃城のようです。
所在地:秋田県山本郡三種町下岩川館ノ下 GPSログダウンロードページ
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