2019/12/16
払田柵/秋田県大仙市
払田柵は文献には登場しないものの、東北地方最大の城柵遺構です。「ほったのき」と読みたくなりますが、「ほったのさく」と読みます。
訪問日は2017年8月8日です。

南側の駐車場から撮った払田柵です。
奥の小山が政庁のあった長森、右端の門が外柵の復元南門です。
その規模は東西1370メートル、南北780メートルに及びます。
出羽国府だったことが確実な城輪柵の倍以上の規模です。

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外柵南門前の駐車場に、説明板があります。
そこに立派な図が載っているので、拝借します

小山2つを丸々囲んでいるのが、創建当初の外柵です。
外柵は9世紀半ばには放棄され、以後は長森だけとなったそうです。
外周を木柵で囲まれた長森が外郭、その中心が政庁です。
これは9世紀の城柵官衙に共通する構造です。

復元された外柵南門です。
こうして建築物が復元されると、とてもリアルになります。
本当にこの形だったのかどうかは???ですが・・・
鬼ノ城や志波城にも、これとよく似た城門が復元されています。
志波城・・・来年夏までには書くと思います


南門から政庁に向かう途中に、大路木橋があります。
外柵内に川が流れていたことがわかっており、川も含めて復元されています。
もしかしたら、水堀の役割もあったかもしれません。

政庁の麓に、石積みに挟まれた柱群があります。
ここが外郭南門跡です。
発掘調査で左側の石積みの基部が見つかり、復元されています。
ここにも外柵みたいな門が欲しいですね!

外郭南門から石段を上がった所が政庁跡です。
発掘調査で見つかった柱の跡で、建物の配置を表示しています。
なんとなくですが、基礎工事の始まりっぽく見えてしまいます♪

外郭の周りを走っていると、こんな光景がありました。
一応撮っておいたのですが、これは外郭の西門跡でした

本当はもっと緩い地形だったっぽいですが、ここも柱だけ配置されています。
◆歴史◆
東北地方最大の規模ながら、文献には一切登場しません。
そのため、位置が比定されていない城柵のどれかだと考えられています。
804年に築かれた河辺府だった説
河辺府は、秋田城から城輪柵へ後退する際、一時的に国府となった所です。
朝廷による東北地方への勢力拡大は、733年に秋田城まで進みました。
しかし、790年代に蝦夷による抵抗が激しくなりました。
801年、坂上田村麻呂が大軍を率い、反乱を討伐しています。
しかし、出羽国府は804年に河辺府に後退しました。
出土した木柵を年輪年代法で測定した結果、801年に伐採されたことが判明。
また、出土した木簡に「嘉祥二年正月十日」(849年)と記されていました。
これらは、時期的には河辺府があった時期と一致しています。
雄勝城だった説
雄勝城は759年に藤原朝狩により築かれた古代城柵です。
その位置は多賀城から見て出羽柵の2駅手前だった事がわかっています。
その条件に当てはまる古代城柵が、払田柵しか無いというのが根拠です。
他に比羅保許山から50余里という記述が、丁度払田柵の辺りらしいです。
また、878年に秋田城を襲った蝦夷は、余勢を駆って雄勝城を攻めています。
他の城柵の位置から見ても、秋田城の次に来そうな距離ではあります。
これらは文献や状況証拠から建てられた説で、確定してはいません。
1902年に水田から大量の木柵や木片が発見されましたが・・・
その大半が燃料にされてしまったそうです

「敦煌で見つかった木簡に似ている」と指摘され、少しだけ残されました。
これが、日本での木簡研究の始まりだったそうです。
所在地:秋田県大仙市払田長森
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