2019/11/24
八反田城/秋田県羽後町
八反田城跡は野球場になっていますが、遺構も残されています。訪問日は2017年8月8日です。

城跡の大部分は公園となっており、県道沿いにあります。
駐車場は県道から見えるのもありますが、ここから入った所にもあります。

野球場の外側にある土塁です。
たぶん、お城の遺構だと思います


先ほどの入口から入る手前から見たところです。
外側には2段の帯曲輪があります。

公園の入口です。
お城の門跡にも見えますが、公園を造った時に崩したものかもしれません。
断面を見る限りでは本物っぽいですが、何とも言えません


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公園入口の右側にある案内図です。
野球場が超目立ちますが、二郭や主郭、大手門跡なども描かれています。

駐車場から奥へ進むと、野球場を見下ろせます。
ガッツリ改変されていますが、ここに居館などがあったと思われます。

登る途中で、園路脇に石碑があります。
これは明治時代の政治家である大日向作太郎氏の碑です。
羽後町出身で、男鹿半島の船川港整備に尽力された人物だそうです。
案内図では、この背後から大手門跡に通じる道が描かれていました。
こちらには、主郭を見た後で行ってみました。

園路をそのまま進むと、正面にまとまった平面が現れます。
ここが二郭です。
土塁とか堀切などがあれば踏み込める程度の草加減ではあります。

園路に沿ってカーブを曲がり、四阿の先へ進んだ所が主郭です。
特に土塁や虎口などは見当たらず、奥に石碑が並んでいます。

城址碑の代わりっぽいのがこれです。
はじめは読めませんでしたが「小野寺家之碑」と彫られています。
「野」の所は異字体です。

主郭まで見たので、最後に大手門跡を目指しました。
主郭裏からまっすぐ進もうと思いましたが、草深かったため断念。
ここは人間らしく、案内図に描かれた道を進もうと思い直しました。
そうして大日向作太郎碑まで戻り、その背後の道を探しましたが・・・
ご覧の通りの状況で、道は見当たらず。
まぁでも、踏み込めない程ではありませんでした。
※あくまで個人の感想ですw

それっぽい所に行ったつもりですが、こんな状況でわからず。
だから「跡」なのかもしれません

◆歴史◆
戦国時代に小野寺氏により築かれました。
八反田城は高寺城の支城だったと考えられています。
高寺城は元亀年間(1570-73)に由利郡方面の抑えとして築かれています。
高寺城の城主は小野寺道親、八反田城の城主は小野寺久住でした。
両者の関係はわかりません

この時期の由利郡では、矢島満安と仁賀保氏・滝沢氏が争っていました。
矢島満安は小野寺氏、仁賀保氏と滝沢氏は大宝寺氏を後ろ盾としていました。
両陣営の争いは、仁賀保氏当主を4回も討ち取った矢島満安が優勢でした。
1588年、矢島満安が仁賀保挙誠に敗れました。
由利十二頭は衰退する大宝寺氏から最上義光へと鞍替えしつつありました。
そんな中、矢島満安だけは小野寺家に従いました。
最上義光の謀略は矢島家に及び、一族による謀反が起きて弱体化されました。
そして、他の由利十二頭の総攻撃を受け、矢島満安が領地を失いました。
そのため、小野寺家は西からも最上家の脅威に晒されることとなります。
1595年、最上軍に攻められ落城しました。
1591年、仙北一揆の責任を問われ、小野寺義道は雄勝郡を没収されました。
しかし、それでも家臣を配置して実効支配し続けていました。
1593年に最上義光が雄勝郡に侵入し始めますが、八柏道為がよく防ぎました。
1595年に最上義光は謀略により、小野寺義道に八柏道為を殺させました。
八柏道為亡き後、雄勝郡の城は最上軍により次々と攻め落とされます。
八反田城も最上軍に攻め落とされ、城主・小野寺久住は落ち延びました。
小野寺久住は三輪神社吉祥院に逃れ、出家して久住寺を開基しています。
所在地:秋田県雄勝郡羽後町新町馬の峰(八反田公園)
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