2019/10/30
城輪柵/山形県酒田市
城輪柵は「きのわのき」と読み、出羽の国府だった所です。訪問日は2016年8月6日です。

山形県のラストは城輪柵です。
広い敷地にポツポツと建物が復元されています。
駐車場や説明板などは、北東の角にあります。

駐車場からポロリでは済まないレベルで見えているのが東門です。
遠くから見ると、塀が短くて寂しい感じがします。

東門から延びる東大路沿いに、神々しい地上絵があります。

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せっかくなので、その部分だけ切り取って歪みを補正してみました♡
かつてどうだったかではなく、現状の案内図です。
発掘調査により、720メートル四方の規模だった事がわかっています。

寄って撮った東門です。
普段はこんな感じで紹介されてると思います。
東大路がちょっと草っぽいですが・・・
建物があると「見に来て良かった」と思えます


東門から入って見た内部の様子です。
やっぱりちょっと寂しい・・・

遠くに見えるもう1つの門が南門です。

せっかく2つあるので、並べて撮りました。
並べて撮れるのは、遮る物が無いからこそです。
・・・と、無理やりポジってみます

東門、南門の脇にある塀を、それぞれ脳内で延長してみて下さい。
国司様になった気分が味わえるかもしれません。

※脳内再生のイメージです
明日仕事なのに、夜更かししてこんな画像遊びする不良社会人です


もう1つ復元されている南門です。
敢えて東門と同じように撮ってみました。
ソックリですね♪
こちらの南大路もやはりちょっと草っぽいです


南門と東門の違いは、外観だけでなく内側にもあります。
足元には「目隠塀跡」と書かれた案内があります。
復元したら「跡」は要らない気もしますけどw
これは、今でも神社やお寺でもたまに見掛けます。
お城の馬出しも、これが起源なのかもしれませんね

◆歴史◆
平安時代前半の815年頃に築かれたと考えられています
出羽国国府は、朝廷が蝦夷を討伐し北進する際の日本海側の最前線でした。
奈良時代はじめに出羽柵が設置され、733年に秋田城に国府が移りました。
しかし、蝦夷の反乱が相次いだため804年に河辺府まで後退。
さらに815年頃に城輪柵に再移転したと考えられています。
はっきりわかったような風に書いていますが・・・
史料上の記録はそうですが、それぞれの所在地は確定ではありません。
国府がいつまで機能していたかは、現在のところ不明です。
1333年に赴任した国司・葉室光顕は、少し南の藤島城に入っています。
この頃までには城輪柵が使われなくなっていたものと思われます。
所在地:山形県酒田市城輪嘉平田
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