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砂越城/山形県酒田市

砂越城は、庄内北部の雄・砂越氏の居城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

砂越城【1】

住宅街の真ん中に、木々が茂る公園があります。
ここが砂越城本丸公園です。
北側は土塁がなくなり、道と城内は高低差がありません。

砂越城【2】

公園を囲む道は堀跡で、東側の墓地に囲まれたお寺が二の丸跡です。

砂越城【3】

道からちょっとだけ公園に入るとこんな感じです。
道と公園内部の間が少しだけ盛り上がっています。
崩された土塁の基部のようです。
かなり分厚いですラブラブ

砂越城【4】

本丸内部はグラウンドになっています。

砂越城【5】

南側には土塁の一部が残っています。
史跡の感じではなく遊具もあるので、お子様が駆け回りそうです。
・・・小さかりし頃の私は、起伏のある地形が大好きでしたw

砂越城【6】

本丸内には、諏訪神社があります。
公園内の木々は、この神社の鎮守の杜だったんですね。
住宅街の真ん中で本丸だけ残ったのは、この神社のおかげだったようです。

砂越城【7】

本丸の南西には、木で組まれた物見櫓があります。
これは、茨城県の逆井城にあるものを参考に建てられたそうです。

砂越城【8】

物見櫓の近くから城外に出る階段があり、その先に木の橋があります。

砂越城【9】

これは「桔橋(はねばし)」と書かれており、戦国時代の橋を模したものです。
他に場所が無かったのか、虎口でもない所に架けられていますあせる

砂越城【10】

模擬橋の近くで水路が切れ、ここに「砂越城絵図」があります。

砂越城【11】
拡大表示

せっかくなので、イタダキます(*´▽`*)
本丸の周りをいくつもの曲輪で囲まれています。
ただ、航空写真を見ると、本丸と二の丸以外は完全に市街地化しています。
東端の土塁は、もしかしたら日枝神社の所に残っているかもしれません。
さっき気づいたので、当日は見に行ってませんあせるあせるあせる

砂越城【12】

模擬橋のある西側は、堀跡と土塁がセットで残っています。


◆歴史◆

平安時代末期に石黒氏により築かれたと伝わります。

『石黒家記』では石黒某が出羽に移り、砂越に館を築いたとされています。
その時期が1154年と書かれたサイト様がいくつかありますが・・・
石黒某は播磨国の豪族・赤松氏の三男だとしています。
ただ、赤松氏が赤松姓を名乗り始めたのは鎌倉時代初期です。
なので、もしそうだとしても、「赤松氏と同族」ですよね?
赤松の地の既に赤松氏が居たとしたら、あの赤松氏とは別の赤松氏という事に。
石黒氏は後から来た砂越氏に領地を譲り、東隣の松山へ移っています。

鎌倉時代に砂越氏が出羽の郡司として赴任しました。

1189年の奥州合戦で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしました。
出羽国には郡司として、砂越氏が赴任しています。
この時に来た砂越氏の下の名前が出て来ませんが・・・
当初はもうちょっと北の、八幡町一條に政所を構えたそうです。
位置的には出羽国司の居た城輪柵のすぐ東で、当時は庄内の中心地でした。
時期はわかりませんがその後、石黒氏の居た砂越城に移っています。

1443年、落城して砂越氏が滅ぼされました。

経緯がサッパリわかりませんが、砂越氏が斯波氏により滅ぼされました。
斯波氏(=最上氏)はこの時期、村山郡に勢力を拡大し一族を配置しています。
この流れでさらに庄内へ進出したのかもしれません。
砂越氏の名跡を斯波一族の矢口将監が名跡を継ぎ、砂越氏益となっています。

1513年、砂越氏雄が討死して滅びました。

砂越氏雄は矢口将監の子で、砂越氏を継ぎました。
大宝寺氏とは1470年代から争い、競うように上洛して官位を授かりました。
1512年、大宝寺領へ侵攻して激戦の末勝利します。
しかし、1513年に大宝寺領へ侵攻すると返り討ちに遭い討死。
跡継ぎもともに討死したため、名跡が途絶えました。
砂越家は大宝寺氏維が名跡を継ぎ、砂越氏維となります。

1532年、砂越氏維が大宝寺城を焼きました。

大法寺一族から名跡を継いだものの、次第に独立傾向を示すようになりました。
1532年に大宝寺晴時と戦い、大宝寺城を焼いています。
大宝寺晴時は大宝寺城を捨て、新たに山城である尾浦城を築いています。
その後、経緯がサッパリあせるあせるあせるですが、砂越氏維は大宝寺氏と和睦しています。

1588年、砂越次郎が庄内を去りました。

1582年、砂越次郎が来次氏秀とともに大宝寺義氏に反旗を翻しました。
大宝寺義氏が遠征を繰り返すものの、成果が出なかったためです。
そのため、大宝寺義氏は娘婿の前森蔵人に討伐を命じますが・・・
討伐に向かった筈の前森蔵人が大宝寺義氏の尾浦城を包囲。
大宝寺義氏は自害しました。
家督は弟の大宝寺義興が継ぎ、東禅寺義長(=前森蔵人)と争いました。
大宝寺義興は上杉家の本庄繁長の次男を養子に迎え、上杉家を後ろ盾とします。
一方の東禅寺義長は、密かに最上義光と通じていました。

1585年、大宝寺義興が最上領の清水城へ出陣すると、東禅寺義長が挙兵。
大宝寺義興は東禅寺城を包囲しますが、最上軍が庄内へ侵攻。
数に勝る最上軍は、大宝寺義興の居城・尾浦城を包囲しました。
包囲戦が始まってから約1年経ったところで尾浦城が落城。
大宝寺義興は自害し、庄内は最上義光の支配下となります。

1588年、上杉家の城となりました。

1588年、大宝寺義興の養子・大宝寺義勝が、領地回復のため侵攻。
実父・本庄繁長とともに上杉軍を率いて東禅寺義長を攻めました。
大宝寺義長は尾浦城外の十五里ヶ原で迎え撃つも大敗。
東禅寺義長・勝正兄弟は討ち取られ、大宝寺義勝が領地を取り戻しました。
この敗戦で、砂越次郎は秋田の安東愛季を頼って落ち延びました。
砂越城は上杉家臣・荒川玄蕃が城代となりました。
どんな人物だったのかは?です。

1590年、豊臣秀吉による奥州仕置き後、太閤検地が実施されました。
これにより、年貢が一気に重くなるため、各地で一揆が起きました。
庄内地方では藤島一揆が起き、直江兼続により鎮圧されています。
この一揆を本庄繁長・大宝寺義勝父子が扇動したとして、領地を没収。
庄内地方は、完全に上杉景勝の領地となりました。

1601年、最上家の城となりました。

関ヶ原の戦の際、上杉景勝は最上義光を攻め山形へ侵攻しました。
しかし、長谷堂城を攻め落とせない内に関ヶ原で西軍が大敗。
そのため、上杉軍は撤退しました。
逃げる上杉軍を最上軍が追いかけ、各地で追撃戦を展開。
最上軍は庄内平野にも攻め込んで来ました。
この時に砂越城も攻められ、城は焼失。
戦後、庄内は最上義光の領地となりました。
砂越城には最上家臣・荒井右衛門が城代となりました。
その後、一国一城令により1615年に廃城となり、翌年破却されました。

1694年、本丸跡に諏訪神社が建てられました。
これは、かつての城主様達の霊を慰めるためだったそうです。
1743年には、二の丸跡に長応寺が再建されました。
長応寺は砂越氏の菩提寺だったため衰退し、1601年に焼失していました。
現在は両社寺を中心に遺構が残されています。


所在地:山形県酒田市砂越楯之内(砂越城跡本丸公園)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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