2019/10/21
狩川城/山形県庄内町
狩川城は、領民から「水馬鹿」と呼ばれた北館利長の居城でした。訪問日は2016年8月6日です。

城跡は現在「楯山公園」となっています。
桜の名所でもあり、広い駐車場が整備されています。
駐車場から公園に入る所に、このご案内があります。

拡大表示
公園の案内図です。
もはや拡大表示も要らないくらいにシンプルです。
それだけやられちゃったという事ですが・・・

城跡の半分以上がゴルフ場となっています。

ただ、案内図を見て城キチなら超気になる所があるハズです。
それが、公園の入口下を道が通っている事。
台地先端部を横切るのは、堀切様に相違ない!

上に戻ると、入口からすぐの所に銅像と説明板があります。
この銅像の人物こそ、ここの城主様・北館利長です。

黄門さまっぽい感じがしないでもないです・・・w

そこから先は、もうこんな感じです。
城跡らしさが感じられない、一面フラットな芝生です


ただ、端っこを歩いていると、虎口っぽい所もあります。
かなり痕跡的な感じではありますが。

先端にはちょっとずつ下がる小さな段があります。
これが2郭、3郭らしいです。
◆歴史◆
1332年、斎藤俊氏により築かれたと伝わります。
斎藤俊氏は、出羽国司・小野良真の子孫を称していたそうです。
小野良真は小野篁の子で、小野小町の父親です。
とはいえ、小野良真も小野小町も実在が疑われている人物ではあります

斎藤氏自体、いくらググっても出てきませんが・・・
時期的には南北朝の争乱直前で、藤島城に葉室光顕が赴任する頃です。
庄内には直後に、高師直の家臣・安保忠実がやって来ます。
ということで、南朝方だったかもしれません。
・・・全部想像です

斎藤氏については本当にほぼ何も出てきませんでしたが・・・
1つだけ、1600年に最上義光に滅ぼされたという記述が見つかりました。
郷土史家の方が書かれているので、たぶん信憑性は高いと思われます。
歴史の表舞台に出ないという事は、うまく戦を避けて生き残った証ですね。
1601年、北館利長が城主となりました。
狩川城では、ほぼこの人物のことしか語られません。
北館利長は最上家臣ですが、それ以前の出自が???です。
こちらもいくらググっても、出自に関する事はほぼ何も出てきません。
地名では現在の岩手県一関市に「北館」が出てきます。
最上家臣の北館利長は、3千石で狩川城主となりました。
当地に赴任した北館利長は、米が採れない事に疑問を感じたそうです。
これは、最上川の水位が平地よりもかなり低かったことが原因でした。
日々領内を歩き回り、どうすれば川の水を利用出来るか調べ続け・・・
これが10年続いたため、領民からは「水馬鹿」と呼ばれていたそうです。
そうして出た結論が、南の山の向こう側から山沿いに水路を造る事でした。
1611年に着工を願い出た時、難工事が予想されかなり反対されたそうです。
しかし、藤島城主・新関久正の後押しにより、最上義光からGoサインが。
7400人を動員して、4か月で第一期の工事を完了。
こうして出来たのが「北楯大堰」でした。
この水路が出来た事で庄内平野は米どころに変貌し・・・
石高は3万石と、工事前の10倍に膨れ上がったそうです。
最上義光は、各地で北館利長の功績を称え自慢したと伝わります。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
北楯大堰が出来てすぐですが、お城の方は廃城となりました。
1622年には主家・最上家が改易されてしまいましたが・・・
北館氏には累は及ばず、そのまま庄内に残りました。
北館利長は隠居し、子の正久が庄内藩主・酒井忠勝に仕えました。
この時に北楯正久に改名しています。
北館利長は「最上家への忠義」ということで、北館姓のままだったそうです。
のちに領民は北館利長を「水神様」と崇め、北舘神社を創建しています。
所在地:山形県東田川郡庄内町狩川楯山(楯山公園)
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