2013/08/18
佐江戸城/神奈川県横浜市都筑区
佐江戸城は鶴見川がカーブし、麓に中原街道が通る舌状台地にありました。訪問日は2013年2月11日です。

▲杉山神社
城跡の比定地としてよく名前が出てくるのが杉山神社です。台地の端にあるため、急斜面に参道の階段があります。杉山神社は城主・猿渡氏が鎮守のために勧請したといわれています。

▲杉山神社周辺
ここら辺りは城跡のはずですがw一面に畑が広がり、所々に集落があるといった感じ。遺構らしきものが無いかキョロキョロしていると・・・

▲堀切跡?
ある畑の一角に、いかにも人工的な溝がありました。深さも幅もそんなにないのですが、堀切ではないか?と言われている溝です。

▲台地先端の地蔵尊付近
台地先端部の地蔵尊辺りも有力な比定地ということで行きましたが・・・台地の先を派手に重機で削る工事中


▲工事現場に貼ってあった図面
工事現場は白い壁に囲まれていて、中を見ることができません。その白い壁に一枚の図面が貼ってありました。等高線の入った図面を見ると、、、斜面の所々に平場がある感じです。

▲地蔵尊脇の斜面
早速工事していない、地蔵尊周辺をウロウロしてみました。すると、人工的な感じのする平場がぼちぼちありました。

▲腰郭?
斜面を登る歩道脇にいくつもある細長い平場。お城の遺構なら腰郭ですね。遺構であるとは限りませんが・・・w
◆歴史◆
佐江戸城も築城年代および築城者は不明です。記録が残っているのは、鎌倉時代の猿渡(さわたり)氏からです。
猿渡氏は平安時代末頃、藤原兼延が武蔵国橘樹郡猿渡村に下り、名乗ったことに始まります。橘樹郡猿渡村は現在の横浜市神奈川区沢渡ですが、足柄郡猿渡村という説もあります。
猿渡氏は鎌倉時代より代々、武蔵国総社の大宮司を務めていました。室町時代に入り、足利尊氏に逆らったため一時所領を失いましたが、すぐに復帰しています。
そして戦国時代には後北条氏に仕えていました。1559年に編纂された『小田原衆所領役帳』では、猿渡内匠助が佐江戸に48貫文を領しています。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際に当主・猿渡盛正が八王子城で討死。このため、猿渡盛正の妹が嫁いでいた江戸城主・遠山景政の次男を養子としました。
その後しばらくは不明ですが、江戸時代初期には竹尾氏が領有していたようです。竹尾元孝については何もわかりませんが、1633~72年まで東漸寺が元孝の菩提所でした。
所在地:神奈川県横浜市都筑区佐江戸町
神奈川県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント