2022/05/30
館山城/栃木県那須町
館山城は、蘆野氏が戦国時代に居城としていた所です。訪問日は2022年4月2日です。

館山城は、ご覧の通りの岩山です。
私、こういう城跡大好きです。
どうやって登るんだろう?って思いますよね。

手前には堀の役割を果たしたであろう川。
もうこれ、堀と高石垣を備えた天然の要塞です。
お城の条件をここまで満たしている地形は珍しいです。

断崖絶壁の岩山は、右前方にも聳えています。
こちらも館山城を構成しているそうです。

いつものが一番上に無いということで、お察しかもしれません。
某大御所様は、橋の正面の竹藪から直登されています。
ああ、そうやって入るんだと思っていました。
しかし、真正面に割と新しめなコイツが鎮座しています。
あやふやな表現なら無視して突っ込む私ですが・・・
明記されている所には入りません。
入って自慢した所で炎上するのが関の山なので。
でも、私にはお金で買った翼があります。
こんな時こそ出番です♪
ブンブン飛ばしまくって、楽しいひと時を過ごしました。
楽しいは楽しいのですが、悲しいかな腕が追い付かず。
沢山撮ったんですけどね・・・

動画がお粗末過ぎるので、画面キャプチャーで凌ぎます。
こんな筈ではなかった・・・_│ ̄│○
まずは正面から。
手前の川、帯曲輪、そして上段の岩山を一望です。
さすがは金の翼ですw

城側から見るとこんなです。
もっと低く攻めれば良かった・・・
帰宅後は、後出しジャンケン出しまくりです。

奥の端も、垂直な断崖です。
手前は鉄壁の防御を誇っています。
岩肌ザックリのお城って、だいたいこうですよね!

今度は右側へ回り込み、2つの岩山の間を撮りました。
先人の書では、この間の傾斜が緩く登れるとありました。
ここを攻める敵は、両側からの矢の雨を覚悟する必要がありそうです。
◆歴史◆
蘆野氏の城でした。
蘆野氏は、那須七騎に数えられる那須一族です。
氏族としては、鎌倉時代から記録が残っているそうです。
室町時代初期の那須資忠の四男・蘆野資方が養子に入りました。
蘆野資方は、1355年に兄・那須資藤とともに戦死しています。
蘆野氏ははじめ、北東にある湿地帯の微高地に館を築きました。
蘆野館と呼ばれるその場所は、耕地整理でほぼ消滅しています。
地形的に、あまり防御には向いていなかった場所とされています。
応永年間(1394-1428)に築かれました
この年代は、那須家が上那須家・下那須家に分裂し争っていました。
詳細は省きますが、兄が上那須家、弟が下那須家です。
地理的には北側が上那須家、南側が下那須家です。
この頃の蘆野氏については詳細不詳です。
当時、蘆野氏がどちらに味方したのかが?ですが・・・
上那須衆に含まれるため、上那須家に味方したと思われます。
それまでの蘆野館とは異なり、ガチガチの防御重視です。
天文年間(1532-55)に廃城となりました
芦野城を築き移ったため、廃城となりました。
当時の城主は蘆野資興で、太田道灌に師事しています。
文武両道で「戦に出れば負け知らず」と伝わっています。
当時も那須家中では内紛がありました。
那須高資が、父と祖父を相手に争っていました。
古河公方で親子喧嘩がありましたが、それに連動しています。
争いの結末は、那須高資が家臣に殺されて異母弟が跡を継いでいます。
表面的には家督争いですが・・・
裏では重臣どうしの主導権争いも絡んでいます。
争ったのは大関宗増と大田原資清です。
大田原資清は、1518年に大関宗増の讒言により追放されました。
その行先が越前だったそうで、随分遠くまで行ったものです。
しかし、1542年に復帰し大関宗増の嫡男を奇襲で討ち取ります。
勝利した大田原資清は、自分の長男に大関家を継がせました。
また、那須七騎の福原家にも次男を送り込んで乗っ取りました。
大田原資清は、那須家を継いだ那須資胤の外祖父でもあります。
ここから大田原・大関・福原の三兄弟が、那須家中を牛耳ります。
蘆野氏は、大田原氏と共に「上那須衆」と呼ばれています。
移った先の芦野城は、館山城より規模が大きいです。
勝ち馬に乗ったのかもしれませんネ。
所在地:栃木県那須郡那須町芦野
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