2019/10/19
尾浦城/山形県鶴岡市
尾浦城は、大宝寺氏が戦国時代に本拠とした山城です。訪問日は2016年8月6日です。

尾浦城は大山公園となっています。
大きな神社が2つもある山でもあります。
東側の麓には、大きな参道の入口があります。

その手前の平地には、こんな溝がありました

これ、堀跡でしょうか?
江戸時代は麓に政庁造ったみたいですし。

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鳥居の脇には、公園の案内図があります。
城跡なので縄張図が欲しかったのですが・・・

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公園の案内図がもう1枚ありました。
こっちの方がちょっとだけ立体的にイメージできるかもしれません

尾浦城は、東西に長い独立丘陵の上に曲輪を連ねていました。

東側からの参道を登った所にあるのが三吉神社です。
案内図では、ここが「本丸」と書かれています。
この広い曲輪に、鯱の載った社殿があります。
こうやって見ると、天守の最上階に見えてきます


広い平地がある他は、城跡らしさが感じられませんでしたが・・・
端には壁状の土盛りがあります。
削り残しかもしれませんが、土塁かもしれません(`・ω・´)

本丸跡から西へ向かうと、こんもりした橋があります。

その下はこんな感じになっています。
案内図では、本丸と隠居所の間に「空堀」と書かれています。
かなり改変されていますが、埋められなくて良かったデス。

空堀の西にあるこの広い所が、隠居所を書かれた曲輪です。
この城で隠居をしたのは、大宝寺義増しかいません。
本丸の隣にある大きな曲輪なので、城主が2人いた感じだったのかも。

こちらにあるのが古峯神社です。
神社が2つあるのは、そういう事に由来するのかもしれません。

古峯神社の西側に、一段高い所があります。
これ、どう見ても物見台ですね


上がった所には、忠魂碑があります。

忠魂碑から西側を見ると、尾浦茶屋と長い曲輪が見えます。
案内図には書かれていませんが、真っすぐなこの感じは馬場っぽいです。

馬場っぽいのは後世の造成かもしれませんが・・・
その奥に、一体の像が見えます。

この像は加藤嘉八郎氏です。
どんな人物かと思ったら、酒蔵の人でした。
江戸時代の鶴岡は天領で、酒造りが盛んだったそうです。
そして加藤嘉八郎氏は、加藤忠広の流れを汲むとも書かれていました。
「子孫」と書かれていないのが・・・ですけどw

像の背後には、尾浦城主武藤家遺蹟塔があります。
武藤家は大宝寺家のことです。
これがココの城址碑みたいな感じです。

その先には、またしても一段高い所があります。
この高い所が躑躅丘です。

ここにも石碑があります。
なぜ躑躅丘なのか、その由来まではわかりませんが

◆歴史◆
天文年間(1532-55)に大宝寺晴時により築かれました。
鎌倉時代からお城があったとする説もありますが・・・
もしそうだったとしても、天文以前の事はわからず

尾浦城が築かれたのは、大宝寺城が戦で焼失したためでした。
当時は砂越氏や反大宝寺派の国人達との争いが続いていました。
砂越氏維は、大宝寺氏が滅ぼした砂越家を継いだ大宝寺一族です。
しかし、次第に独立志向を強めて大宝寺晴時と争うようになりました。
1533年、砂越氏維との戦で大宝寺城が焼かれてしまいます。
大宝寺城は川の流れが変わって要害性が無くなり、洪水に悩まされていました。
そのため、守りの堅い山城が必要となり、尾浦城が築かれました。
1568年、上杉謙信に攻められました。
1543年に家督を継いだ大宝寺義増も、苦難の連続でした。
そんな状況を立て直そうと、揚北衆の本庄繁長を後ろ盾にすることに成功。
庄内地方は徐々にまとまりを取り戻しつつありました。
1563年には最上郡に進出し、佐々木貞綱を破りました。
さらに1565年には清水義高を討ち取り、一時は村山郡にも進出しました。
しかし、1568年に本庄繁長が上杉謙信に謀反を起こします。
大宝寺義増は当然の事ながら本庄繁長に味方したのですが・・・
本庄繁長は揚北衆筆頭だけあって、さすがの上杉謙信も攻めあぐねました。
すると、上杉謙信は庄内地方に侵攻し大宝寺義増を攻めました。
大宝寺義増は堪らず降伏し、嫡男の大宝寺義氏を人質に取られました。
本庄繁長は翌年、上杉謙信に降伏して乱は終結しました。
上杉謙信は大宝寺義増を隠居させ、大宝寺義氏に家督を継がせました。
1583年、大宝寺義氏が自害しました。
家督を継いだ大宝寺義氏は、上杉謙信を後ろ盾に対抗勢力を次々撃破。
田川郡・櫛引郡・遊佐郡を手中に収め、大宝寺氏の最盛期を築き上げました。
さらに北の由利郡への進出も企図しますが、ここから挫折が始まります。
1578年、上杉謙信が世を去り、御舘の乱が始まりました。
大宝寺義氏は伊達・蘆名氏との関係から、上杉景虎を支持しました。
一方、本庄繁長は上杉景勝を支持したため、大宝寺義氏は孤立しました。
そこで、織田信長に近づいて屋形号の称号を手に入れました。
「屋形号」は、実力のある大名だというお墨付きだったようです。
ただ、そのために羽黒山別当の座を弟に譲り、羽黒山信徒も敵に回しました。
しかも織田信長は1582年、本能寺の変で自害。
せっかく手に入れた屋形号も、形だけのものとなりました。
この頃、村山郡を争っていた最上義光が、家中を統一して勢力を拡大。
清水城を巡る戦いで、大宝寺軍は最上軍に大敗を喫しました。
さらに、大宝寺氏と同盟関係にあった由利衆と小野寺氏が争い始めました。
大宝寺軍は由利郡へ出陣しましたが、秋田氏の軍勢に大敗しました。
すると、それまで大人しかった砂越氏や来次氏が露骨に反抗し始めました。
大宝寺義氏は娘婿で家臣の前森蔵人に討伐を命じましたが・・・
出陣した前森蔵人は、そのまま尾浦城を包囲。
大宝寺義氏を自害に追い込みました。
1587年、最上軍に攻められ落城しました。
大宝寺義氏の自害後、家督は弟の大宝寺義興が継ぎました。
前森蔵人改め東禅寺義長ら重臣は最上派が多かったのですが・・・
大宝寺義興は上杉家の重臣・本庄繁長の次男を養子に迎えました。
そして1585年、最上領の清水城を攻めました。
大宝寺軍が最上領へ侵攻すると、庄内の最上派が一斉に挙兵。
大宝寺義興は、実は彼らの掃討を狙っていたのかもしれません。
最上義光は援軍を送りますが、伊達政宗の圧力で和議を結び撤退。
大宝寺義興は、最上派筆頭格の東禅寺義長の東禅寺城を包囲しました。
ここまでは狙い通りだったのかもしれませんが・・・
最上義光が東禅寺城を助けるため、大軍で駆け付けました。
頼みの綱の本庄繁長は、新発田重家の乱が終わらず動けませんでした。
尾浦城は最上軍の包囲に約1年耐えましたが、ついに落城。
大宝寺義興は自害しました。
1588年、大宝寺義勝が奪還しました。
庄内を制圧した最上義光は、家臣の中山朝正を尾浦城代としました。
東禅寺義長とともに庄内の統治を仕切りましたが・・・
最上家からの恩賞に不満を持つ者が少なからずいました。
そんな中、新発田重家の乱が終結し、本庄繁長が庄内に侵攻。
最上義光は大崎合戦に巻き込まれ、援軍を送ることが出来ませんでした。
東禅寺義長は、尾浦城下の十五里ヶ原で本庄軍を迎撃。
兵力差は歴然としており、上杉方に寝返る者が続出しました。
東禅寺義長が討死すると、弟の東禅寺勝正が捨て身の突撃を敢行。
本庄繁長に斬りかかり、壮絶な討死を遂げました。
戦後、大宝寺義興の養子だった大宝寺義勝が城主となりました。
1591年、大宝寺義勝が流罪になりました。
1590年、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は全国統一を達成。
関東から北も支配下に置き、領地の再編成となる奥州仕置きを行いました。
この時に領地を失ったり、検地の方法が変わり反発する農民が多く・・・
各地で一揆が起きました。
庄内でも藤島一揆が起こり、上杉家の直江兼続により鎮圧されました。
ただ、この一揆は本庄繁長・大宝寺義勝父子が扇動したと疑われ・・・
本庄繁長は大和、大宝寺義勝は川中島へ流罪となりました。
尾浦城主は?ですが、庄内は上杉家の領地となりました。
尚、本庄繁長父子はその後、朝鮮出兵での功により上杉家に帰参しています。
大宝寺義勝は廃嫡された兄に代わって家督を継ぎ、本庄充長となっています。
1601年、最上家の城となりました。
1598年に城主となった下吉忠は、慶長出羽合戦で最上領へ攻め込みました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗れ上杉軍が山形から撤退した事が伝わらず孤立。
最上軍に包囲された下吉忠は降伏し、最上家臣となりました。
そのまま庄内へ侵攻した最上軍の先鋒として活躍。
下吉忠は最上家臣として、あらためて尾浦城主となりました。
下吉忠は尾浦城を大山城と改名し、山城の麓に政庁を整備しました。
1614年、城主の暗殺後、間もなく廃城となりました。
下吉忠の没後は、下秀実が城主となりました。
下秀実は1614年、鶴岡で志村光惟と会談中に一栗高春に暗殺されました。
一栗高春は、逃亡中に新関久正により誅殺されました。
この事件により、清水義親の大坂方への内通疑惑・粛清へと発展しています。
尾浦城は、最上家親の弟・大山光隆が2万7千石の城主となりました。
しかしその翌年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:山形県鶴岡市大山3丁目(大山公園)
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