2019/10/16
丸岡城/山形県鶴岡市
丸岡城は、加藤清正の子が改易後に過ごした所です。訪問日は2016年8月6日です。

東側の大手門跡です。
大手門の跡ですが、そうだった形跡が見出せません。
現在は公園となっており、園路でその位置が示されています。

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大手門跡の脇にある案内図です。
東側から見た図なので、右側が北となります。
こうして見ると、城の北東部分が辛うじて残された感じです。

案内図の隣にある城址碑です。
なかなか渋~い感じでイイですね


すぐ目の前には、赤い鳥居が連なった御城稲荷があります。
鳥居の足元には「遺構御城稲荷」と彫られた石があります。
北東隅の土塁脇にあり、鬼門除けだったようです。

北側には水堀があります。
見た感じはそんなに深くない、復元されたもののようです。

城跡の北側には、天澤寺があります。
加藤家終焉の地として、多くの方が参拝されるそうです。

このお寺の脇に、加藤清正のお墓があります。
元々は加藤忠広が密かに父親を弔っていたのだそうです。
発掘調査では、地下2メートルに埋められた鎧が見つかっています。
見つかった時は錆びてバラバラな状態だったそうですが・・・
名古屋の鎧職人さんが復元し、2016年7月にお寺に贈ったそうです。
私が訪ねる1週間程前の出来事でした

どんな鎧かはググってみて下さい。
関係ない鎧がたくさん出てきますが、青いのがソレです。

北側の水堀を北西側から見た所です。
夜明け直後なので、光線状態は良くありません


公園の西側です。
当時はこれが復元された土塁と堀跡だと思っていましたが・・・
あらためて案内図を見ると、そうでもなさそうな気がしてきました。

こちらは水堀脇に復元された土塁です。
本物だったら、傾斜はこんなに緩くないですよね?

公園内部はあまり起伏がありませんが、庭園の池っぽいのがあります。
すぐ近くに石碑があり、「お庭の泉水跡」と彫られています。
説明文によると、この泉水跡を地元では「百間堀」と呼ぶそうです。

広い公園の真ん中には、建物の配置が表現されていました。
どうやらこれは、加藤忠広の館の配置を表しているようです。

その片隅に「太夫石・巫女石」があります。
実はこれ、蟄居中の加藤忠広が密かに父の墓石代わりにした石だそうです。
巫女石は、この地で没した生母の墓石だそうです。
親の菩提を堂々と弔えなかったなんて、とても切ないですね。
◆歴史◆
押切備前守により築かれたと伝わります。
押切備前守は大宝寺氏の家臣です。
事績や本名がよくわかりません。
1512年に横山城を築いて移るので、それ以前からあった事になります。
大宝寺義興が城主だった時期があります。
大宝寺義興は大宝寺義増の次男です。
1554年生まれなので、押切備前守が横山城へ移ってから間が空いています。
丸岡城は庄内と村山郡を結ぶ六十間越街道を抑える要衝でした。
そのため、大宝寺氏が常にだれかを常駐させていたと思われます。
大宝寺義興は、兄が家督を継いだ2年後の1571年に藤島城主となりました。
この時は「丸岡義興」と名乗っていたので、丸岡城主だったと思われます。
1583年、兄が東禅寺義長の謀反により自害したため、当主となります。
1587年、大宝寺義興が最上軍に討たれました。
大宝寺義興は1585年、村山郡に侵攻し最上家の清水城を攻めました。
すると、庄内の反大宝寺勢力である東禅寺義長が挙兵。
大宝寺義興は矛先を東禅寺城に変え、城を包囲しました。
すると、最上義光が大軍で東禅寺城救援に出たため退却。
居城の尾浦城に籠城しましたが、1年ほどで落城し討たれました。
最上義光は庄内を東禅寺義長に任せ、尾浦城に中山朝正を配置しました。
1588年、大宝寺義勝が庄内を奪還しました。
前年に虎口を脱した養子の大宝寺義勝が、実父とともに反撃に転じました。
実父は上杉家重臣で揚北衆の中心人物である本庄繁長です。
最上義光が伊達政宗と争っている隙を突いて庄内へ侵攻。
十五里ヶ原の戦で東禅寺義長・勝正兄弟を討ち、庄内を奪還しました。
1590年、大宝寺義勝が領地を没収されました。
1590年に豊臣秀吉が奥州仕置きを行い、太閤検地を実施しました。
すると、反発する農民や領地を失った武士達が、各地で一揆を起こしました。
庄内地方でも「藤島一揆」と呼ばれる一揆が起こりました。
この一揆は上杉家の直江兼続により平定されましたが・・・
本庄繁長と大宝寺義勝が一揆を扇動したとされ、大和へ流罪となりました。
以後、庄内地方は上杉家の領地となります。
1615年、廃城となりました。
1600年、上杉景勝が徳川家康と対立し、領地を大幅に減らされました。
この時に庄内地方は最上義光の領地となりました。
1615年に一国一城令が発令され、丸岡城はこの時に廃城となっています。
1632年、加藤忠広の館が築かれました。
1622年の最上家改易後、酒井忠勝が庄内藩主となりました。
酒井忠勝は、徳川四天王の酒井忠次の孫です。
1632年、肥後藩の加藤忠広が改易され、庄内藩預かりの身となりました。
改易の理由はあれこれと説がありますが・・・
加藤忠広には、丸岡1万石が一代限りの堪忍領として与えられました。
改易後の蟄居で過ごすための館が、丸岡城の跡地に築かれました。
それから22年後の1654年、加藤忠広が没しました。
丸岡は幕府と庄内藩の領地となり、加藤家は終焉を迎えました。
所在地:山形県鶴岡市丸岡町の内
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