2019/09/30
新庄城/山形県新庄市
新庄城は最上家改易後に立藩した新庄藩の藩庁として築かれました。訪問日は2016年8月6日です。

まずはメインの入口から。
東側にこの土橋があり、真正面に神社が見えます。
ここが本丸の入口となります。
新庄城は外側を囲んでいた二の丸が消滅し、本丸だけが残っています。

土橋を渡った先にある神社が戸澤神社です。
祀られているのは戸沢氏の祖・戸沢衡盛と新庄藩初代・戸沢政盛です。

神社へ入らず左へ曲がると、石垣が見えます。

反対側から見た表御門跡です。
土橋の真正面ではなく直角に曲がった所にあります。
これ、絶対に枡形門ですね!

表御門の内側は、広大な駐車場となっています。
その外側は、かなり高い土塁で囲まれています


表御門の北側から水堀を見た所です。
反時計回りに城内を散策しました。

本丸の北側にあるこの建物は藤嵐閣です。
「二条城にあった流扇閣を模した」とはどこにでも書かれている事。
よし、じゃぁその元の写真も載せるぞ!と意気込みましたが・・・
「流扇閣」が見つからず

ただ、二条城から横浜の三渓園に移された三笠閣→聞秋閣が超ソックリ。
画像検索して藤嵐閣と並べると、正面も裏もウリふたつです。

近くには、櫓台っぽい土塁の高まりがあり、裏御門跡の標柱もあります。

北西側の堀は埋められ、公園となっています。
ここは「大納戸櫓跡」ですが、櫓がどこにあったのかわかりません


埋められた堀跡です。
石垣も無く、本格的に潰しに掛かったようです。
それでもこうなったのは、水堀の執念でしょうか?w

西の角から、水堀が復活します。
北西側も幅はこれくらいあります。
これを埋めちまおう!というエネルギー、凄まじいですね。

南西にも土橋があり、その付け根に「二の丸跡」の標柱があります。
水堀の外側はどこも二の丸でしたが、空き地なのがココだけなんですね。

土橋を渡った先に門の跡があります。
ココから入った所が、最初に着いた駐車場です。

外側に戻り、南の角から見た水堀と土塁です。
この角が「武具櫓跡」で、土塁上に二層の櫓があったそうです。
◆歴史◆
1625年、戸沢政盛により築かれました。
戸沢政盛は鬼九郎と呼ばれた猛将・戸沢盛安の子です。
生い立ちがかなり凄いのですが・・・気になりますか?w
ザックリですが、書いておきます^^
戸沢政盛は戸沢盛安と町娘の間に生まれた子でした。
そのため嫡男としては扱われず、町民の子として育ちました。
しかし、1590年に父が25歳、その2年後に叔父が17歳で没します。
跡継ぎが無く困った戸沢家臣団は、町民の子として育った戸沢政盛を拉致。
その際に、町民の養父を斬って強奪しています。
叔父の未亡人を養母として、大坂で豊臣秀吉と対面。
家督相続と領地の安堵が認められました。
戸沢氏は西の安東氏、南の小野寺氏と争う角館4万5千石の大名でした。
関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は常陸国松岡藩4万石へ移されました。
少し減らされたのは、安東氏を警戒して消極的だったからだそうです。
戸沢政盛は徳川家譜代の鳥居忠政の妹を正室に迎えました。
その時期は1608年頃で、松岡藩主だった時期です。
当時の鳥居忠政は磐城平藩主で、南北でお隣同士だったようです。
・・・ザックリが長くなりました

1622年、最上家が改易され、鳥居忠政が山形藩主となりました。
旧最上領は鳥居家の縁戚で分けられ、戸沢政盛が新庄藩主となりました。
当初は鮭延城に入りましたが、山城で不便なため新庄城が築かれました。
以後、戊辰戦争に至るまで新庄藩主・戸沢氏の居城となります。
1868年、焼失し廃城となりました。
新庄藩は戊辰戦争で、当初は新政府に味方していました。
しかし、庄内藩との戦いに敗れてからは奥羽越列藩同盟方となりました。
新政府軍が庄内藩に攻め込むと、主寝坂峠で防いでいましたが・・・
秋田の久保田藩が新政府側につくことが判明したため、途中で戦線離脱。
これに怒った庄内藩により新庄城が攻められて焼失し、廃城となりました。
新政府軍が奪還するまでの70日間、新庄は庄内藩に占領されました。
所在地:山形県新庄市堀端町(最上公園・戸澤神社)
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