2019/09/29
清水城/山形県大蔵村
清水城は最上家の北の前線基地でした。訪問日は2016年8月6日です。

清水城は北へ突き出した台地の端を堀で隔離しています。
土塁と堀が無ければ、真っ平ですね☆
ここが二の丸の入口で、土塁と堀で出来た門の跡がはっきり残っています。

土塁の前にある堀です。
かなり埋まっていそうですが、かなり幅があります。
何となくですが、薬研堀だったっぽい感じがします。

門の跡から見た城内です。
左端に写っている標柱には「二の丸跡」と書かれています。
二の丸が丸々田んぼになっています。

田んぼの先の杉林に入ると、内堀の標柱があります。
内堀どこだ?と思っていましたが・・・

かなりデカイのありました




その先に、草の刈られた広い本丸があります。
◆歴史◆
1476年、成沢満久により築かれました。
成沢満久は、最上家初代・斯波頼兼の曾孫です。
成沢城主・成沢兼義の次男で1474年に清水の地に配置されました。
時期的には最上家5代めの最上義春が没し、最上義秋が継いだ年です。
かなり離れているので、最上宗家の指示によるものと思われます。
最上氏は最上川水運の支配権を巡り大宝寺氏・小野寺氏と争っていました。
成沢満久は地名をとって清水姓を名乗るようになります。
当初は900メートル程東に元館を築き、拠点としていました。
その後、台地上に城を築いて移っています。
清水城の本丸からは、すぐ北を流れる最上川が手に取るように見えます。
1565年、清水義高が戦死しました。
最上氏が大宝寺氏と最上川を渡ってすぐの本合海で戦いました。
この戦で清水義高が大宝寺義増に討たれました。
大宝寺軍は一時村山郡に侵入しましたが、最上軍の反撃に遭い撤退。
清水家は子の清水義氏が継ぎました。
1614年、最上家親に襲撃され落城しました。
清水義氏には跡継ぎが無かったため、最上義光の三男・義親が継ぎました。
清水義親の母親は天童御前で、幼少時は豊臣家への人質となっていました。
大坂冬の陣直前、最上家当主・最上家親が清水城を急襲。
清水義親は13歳の嫡子・義継ともども自害しました。
清水義親は人質時代、豊臣秀頼ととても仲が良かったそうです。
そのため、豊臣方への内通を疑われた?と考えられています。
兄・最上家親との不仲説もあり、時節を狙っての襲撃かもしれません。
以後、最上川の船継ぎ特権は、山形寄りの大石田河岸に移されています。
尚、大蔵村の「大蔵」は、清水義親の「大蔵大輔」に由来するそうです。
所在地:山形県最上郡大蔵村大字清水
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