2019/09/28
延沢城/山形県尾花沢市
延沢城は野辺沢城とも表記され、『出羽のヘラクレス』が居たお城です。訪問日は2016年8月6日です。

延沢城跡は国の史跡に指定されており、案内が出ています。
県道のこの脇に公民館があり、車を停められます。

そのまま道を奥へ進むと、常盤小学校があります。
登城口にある段差のこの感じ、平時の居館ぽさが漂います。

小学校の前に、延沢城の説明板があります。
文字数多いです




小学校の前から左側を見ると、山に入る道に白い標柱があります。
これ、どう見ても登城口ですよね?

入口からすぐの所に「仮登城路」の立て札がありました。
ここは仮だよ、本当は違うんだよ、と強調しているようです。
一緒に地図を貼って頂けるとわかりやすいのですが・・・

仮登城路とは言うものの、傾斜が緩く真っすぐで歩きやすそうです。
「本物の登城路じゃなきゃ嫌だヽ(`Д´)ノ」
だなんて、意志薄弱な私には口が裂けても言わせない圧力があります


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仮登城口から登り始めて5分で、この案内図が現れます。
図のタイトルには「銀山」とあります。
延沢城は、貴重な財源である銀山を守るお城だったんですね!

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とは言っても、城キチが興味あるのは城跡のみ(`・ω・´)
欲しい部分だけ抜き出すとこんな感じです。
大手門口からの道と、案内図の所で合流しています。
ということで、ここから先は「本物」の登城路です(*´▽`*)

登って来る道の合流点ですが、登る道の分岐点でもあります。
意志薄弱ではありますが・・・色々見たかったので遠回りしました


いきなり本丸へは向かわず、天人清水へ。
その手前に堀切がありました


天人清水です。
今でも滔々と水を湛えています。
延沢城の水瓶は、数百年の時を超えて今も生き続けています^^

本丸方向へ向かうと、段々の曲輪が迎えてくれます。

本丸へ向かうにつれて、色んな案内が増えて来ます。
城塁に沿って真っすぐに伸びるこの平地は「馬場」です。

両脇に土塁が迫る門から入り直角に曲がるココは「桝形虎口」です。

そのすぐ上にあるこの門跡には「櫓門」の案内がありました。
全体的にはただの段々な城跡ですが、所々に手の込んだ仕掛けがあります


そして本丸です。
広いです


広い本丸の中に、立派な石碑があります。
石碑には「霧山城之址」と彫られています。

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さすがは有名どころなので、縄張図まであります。
ただ、お天気が良いと木漏れ日が差して、画にはなりづらいです。
ここを訪ねるなら、曇りの日が良さそうです


最後に、現存している移築門です。
三の丸にあった大手門が、城跡から少し西の龍護寺の山門となっています。
このお寺は天正年間(1573-92)に、延沢満延により開基されました。
延沢満延・光昌父子のお墓がここにあるそうです。
◆歴史◆
1456年、儀賀市郎左衛門が銀山を発見しました。
儀賀市郎左衛門は陸奥・出羽の名山巡礼をしていた人物です。
白山神社に泊まっている時に神様のお告げがあったそうで・・・
鉱石を生野銀山の作兵衛に鑑定してもらったところ、銀であることが判明。
翌年から儀賀市郎左衛門と作兵衛が30人の鉱夫を集め採掘を始めました。
1547年、野辺沢(延沢)満重により築かれました。
野辺沢氏の出自は2説あります。
①1395年頃土着した算学兵術の達人・日野昭光を祖とする説
②東根城の小田島氏を祖とする説
野辺沢満重についてはいくらググっても、城を築いた事以外には出てこず。
「野辺沢」が「延沢」と表記されるようになったのは、最上氏改易後だそうです。
出羽のヘラクレス・延沢満延
延沢満延は怪力で有名だったそうです。
当初は最上八楯の天童氏に味方し、最上義光を苦しめました。
しかし、1577年の和睦後、最上義光が娘を子の延沢光昌に嫁がせました。
怪力エピソードがいくつかあります。
・話をする時でも、常に五尺一寸の鉄棒を握っていた
・力試しをして木にしがみついた最上義光を、木ごと引っこ抜いた
・大きな鐘を自領のお寺まで自ら持ち帰った
など、いくつも伝わっています。
最上義光は和睦の際、天童家の娘を側室に迎えていました。
しかし1584年頃、天童家から嫁いで来た娘(天童御前)が世を去りました。
すると和睦が破棄され、最上義光が天童家と争い始めました。
延沢満延が最上義光に味方したため、最上方に寝返る者が続出。
天童家は敗れ、天童頼澄は伊達政宗を頼って落ち延びました。
最上義光は延沢満延との約束を守り、天童頼澄を逃がしたのでした。
1590年、延沢満延は最上義光と上洛中に倒れ、そのまま没しました。
1622年、最上家が改易されました。
御家騒動が原因で、最上家が改易されました。
延沢光昌は加藤家預かりの身となり、肥後へ移されました。
山形は鳥居忠政が藩主となり、戸田玄蕃が延沢城の城番となりました。
幕府は延沢銀山の採掘を奨励し、この頃が一番銀が取れたそうです。
1667年、廃城となりました。
延沢銀山は活況を呈し、近隣から出稼ぎの多くの鉱夫が集まりました。
そのため、農家を辞めてしまう者が続出したそうです。
米沢藩では、他藩の銀山への出稼ぎを御法度にするなど対応に追われました。
しかし、1650年頃から銀の産出量が激減し、坑道に水が湧き始めました。
幕府は金を掛けて水抜きを試みましたが、ついに諦めます。
1667年に延沢城は廃城となり、その頃に銀山も閉山となりました。
所在地:山形県尾花沢市大字延沢
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