2019/09/25
大久保城/山形県村山市
大久保城は、水堀が一部残っています。訪問日は2016年8月5日です。

城跡の主要部には現在、大久保小学校があります。
周辺も市街地化されており、城跡らしさはあまり感じられません。

しかし、小学校南側の校門前に立派な城址碑があります


表向きは住宅街に埋もれていますが、水堀の一部が残っています。
ここは小学校の西側で、水堀はここから北に伸びています。

水堀は小学校に北側を回り込んで、ここまで続いています。
◆歴史◆
最上満頼が入部し大窪殿と呼ばれていました。
最上満頼は最上家3代め当主・最上満直の三男です。
年代は1400年代前半の人物です。
何せ、生年も没年も諸説あり、当主ですら事績不詳なので

この頃は少し東の大久保古城に在城していたと伝わります。
天正年間(1571-92)、大久保主馬により築かれました。
大久保主馬の出自は不詳です。
大窪殿の子孫かもしれませんし、天童氏の家臣かもしれません。
サッパリわからないと燃えるのが私の性分です

ググっていたら、異説?を見付けました。
書かれているのが1か所だけですが、内容は整合性があるように感じます。
それは、宝鏡寺の寺伝を紹介しているサイト様です。
そこでは、城主様の子孫が所蔵する系図に書かれています。
その内容は・・・
大久保城主・佐藤昌充が1590年7月18日に没。
2代目の佐藤昌愛は、1602年2月15日の落城後に仙台に逃れました。
その5か月後、大久保主馬丞が大久保の地に封ぜられたという内容です。
最上義光は家臣を山形城下に集住させる政策を取りました。
時期がよくわかりませんが・・・
最上義光が山形城を拡張したのは、1600年の関ヶ原の戦の後からです。
なので、大久保主馬丞が大久保城に在城した期間は短かったと思われます。
1622年に廃城になったとされます。
この年、最上騒動と呼ばれる御家騒動がありました。
詳しくは書きませんが、当主の毒殺疑惑とその後の家督争いです。
これにより最上家は改易され、この時に廃城になったとされます。
所在地:山形県村山市大字大久保(大久保小学校)
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