2019/09/23
東根城/山形県東根市
東根城は天童一族・東根氏の居城でした。訪問日は2016年8月5日です。

東根城の主郭だったとされる場所は、現在小学校となっています。
何となくですが、江戸時代の陣屋風にしているように見えます。
作者の意図はまた違う所にあるのかもしれませんが・・・

周りは切り込みハギの石垣に白漆喰の長塀で囲まれています。
知らない人が見ると、成金様のお屋敷に見えますw

この小学校の前には、東根の大ケヤキがあります。
推定樹齢は1500年以上、幹回り16メートル、直径5メートルの巨樹です。
お城があった頃でも、既に樹齢1000年を超えていますね♪
日本三大ケヤキの1つで、国の天然記念物なのだそうです。

城跡の目の前には、かなり大きな池があります。
ここは龍興寺沼と呼ばれ、天然の水堀の役目を果たしたと思われます。

小学校の北には、かなり幅の広い低地があります。。
まっすぐ帯状なので堀跡なのかと思いましたが・・・
地図を見ると、東西の池の間にこの低地があります。
おそらく、池の真ん中を埋め立てたものと思われます。
埋め立てはしたものの、だんだん沈み込んだのかもしれません。
◆歴史◆
1347年、小田島長義により、築かれました。
小田島氏は中条氏の一族で、結城氏により小田島荘に配置されました。
その地名から、小田島長義は小田島姓を名乗るようになりました。
小田島荘は現在の東根市と河北町一帯です。
しかし、主の結城氏は1342年に北朝方に寝返りました。
小田島長義は南朝方に留まり、以後は結城氏と争うようになります。
一時は北朝方に領地を奪われたものの、1356年に奪還しました。
しかし、同年出羽に入った斯波兼頼に敗れ、以後は最上川西岸に逼塞。
湿地帯を開拓して谷地城を築き、戦国時代まで続きました。
1395年、坂本頼高が城主となりました。
坂本頼高は天童頼直の四男ですが、最上頼満の孫です。
天童氏は元々は最上氏と争っていましたが・・・
天童義直、天童頼直と、2代続けて最上氏から養子を迎えていました。
坂本頼高は地名から東根姓を名乗るようになります。
以後、7代にわたり東根氏が居城としました。
1581年か1584年、里見景佐が城主になりました。
天童氏を中心とする最上八楯は、最上義光と対立していました。
1577年に一度和睦し、天童頼貞の娘が最上義光に嫁ぎました。
しかし、1582年に天童御前が没し、和睦が白紙状態に戻りました。
最上義光は天童氏周辺に周到を調略し、最上八楯の内部崩壊を謀りました。
東根頼景は実兄の天童頼澄に味方していましたが・・・
最上義光は東根家の重臣・里見景佐を調略。
里見景佐は東根頼景を殺害し、東根城を乗っ取りました。
この事件が起きたのが1581年説、1584年説があります。
周辺の状況から、1584年じゃないかと思うのですが・・・
東根頼景が1603年の最上義康殺害事件で殺されたとする説もあります。
この説では、里見景佐は東根頼景の弟という事になっています。
東根城主となった里見景佐は東根姓を名乗り、最上義光の娘を娶りました。
里見景佐は最上義光からの信任が厚かったようです。
しかし、1620年、最上家の行く末を案じながら世を去りました。
遺言状では、最上家は3年ももたないのでは、と書いていたそうです。
その不安は的中し、1622年に最上家は御家騒動が原因で改易されています。
1668年、破却されました。
1622年も最上家改易後も、仙台藩に近い事を理由に城は存続しました。
しかし、1661年に城は破却され、山形藩や白石藩の陣屋が置かれました。
1668年、東根は天領となり、陣屋も破却されました。
所在地:山形県東根市本丸南一丁目(東根小学校)
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