2019/09/17
金石城/長崎県対馬市
金石城は対馬国守護・宗氏が一時期居城としたお城です。訪問日は2019年9月15日です。

金石城跡は、対馬市役所やふれあい処つしまの真正面にあります。
城域は不明確ですが、現在見られるハッキリした石垣の端がココです。
石垣の上には、対馬博物館(仮)が建設中です。
建物の工事は終わっているようで、来年開館予定らしいです。

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金石城の案内図が無かったので、石垣に貼ってある図を拝借しました。
こいつに描かれているものが色々古いので、勝手に書き加えています。
右上にこっそり書かれている清水山城は、次回紹介致します


博物館が乗っている石垣を奥から見た所です。
訪問前に、ネットで金石城の案内図を漁りました。
その時に、金石城の復元計画なるものを発見しました。
博物館の建設はその中にありましたが・・・
このあちこちコンクリートで囲まれた石垣も復元する予定だそうです。
工期が平成50年までだったので、いつ実現するかは?ですけどw

一番上の写真で既に見えていましたが、一番の見所がこの櫓門です。
門の真上にある櫓は、なかなか斬新か感じがします。
これが、金石城の天守の代用だったそうです。
周りがちょっと寂しいですが・・・
何度も火災で焼失しており、現在のものは1990年に復元されたものです。

せっかくなので反対側も。
広々とした駐車場ですが、現在はロープが張られ駐車出来ません。
ここは整備計画では「桝形エリア」と呼ばれ、端っこに大階段があります。
どうなるんだろう?と思いましたが、広場になる印象です


桝形門から入ると、広いグラウンドと体育館が見えます。
ここが、城主様の居館があった場所だそうです。
整備計画では、居館を復元するため体育館を撤去する予定だそうです。

グラウンドと並んで庭園があり、こちらは綺麗に整備されています
生垣に囲まれ、中の様子は外からはあまり見えません。
管理棟に申し出れば入れるそうですが・・・
私は庭園にはあまり興味が沸かず、入口からこっそり見ました


庭園の奥には、搦手門の跡があります。
手前の石垣は崩され、基部だけが残っています。
ただ、これだけでも桝形門であった事がよくわかります


外側から見るとこんな感じです。
手前の橋は真ん中が高いので、もうちょっと引くと橋しか写りません

こうやって搦手門を見ると、大手門は?と思ってしまいます。
大手門は櫓門の所だったハズですが・・・
櫓門は堀からかなり入った所にあります。
外側がどうだったのか、超気になり出しました。
もしかしたら、堀を渡る橋→高麗門→桝形→櫓門だったのかも???
勝手に妄想ばかりが膨らみ始めます


搦手門の前から市役所の前まで、こんな感じの石垣と堀があります。
結構長かったな~と思い出し、測ってみたら330メートルありました。
ちょっと地味ですが、これはこれで凄い遺構だと思います

◆歴史◆
1528年、宗将盛により金石屋形が築かれました。
宗将盛は対馬守護・宗氏の15代当主です。
14代当主ではとこの宗盛長が没すると、子が幼いため家督を継ぎました。
これが色々きな臭く、クーデターだったという説もあります。
家督を継いでから一族による謀反が相次ぎ、居館を転々とします。
元々の居館だった中村館が焼かれ、池の館に移りましたが・・・
おおよそ2年で再び焼かれ、そこで築かれたのが金石屋形でした。
1539年、宗一族に包囲されました。
宗将盛は反発する一族の鎮圧に奔走し続けました。
しかし、劣勢を覆すことが出来ず、ついに金石屋形を包囲されました。
観念した宗将盛は家督返上を余儀なくされ、豊館で隠棲しました。
代わって家督を継いだのは、叔父にあたる宗晴康でした。
宗晴康は出家していましたが、一族に請われ還俗して家督を継ぎました。
当主となった宗晴康は、38家あった分家が宗姓を名乗ることを禁じました。
これにより宗家の権力を強化することに成功しました。
1591年、清水山城が築かれました。
豊臣秀吉は九州征伐後、朝鮮出兵を企図しました。
これに先立ち、宗義調に朝鮮王を従属させるよう命じました。
あの手この手で時間稼ぎを画策したもののうまく行かず・・・
そんな中、宗義調が1588年に世を去りました。
これにより交渉が不調に終わり、豊臣秀吉は朝鮮出兵を決定。
最前線の兵站基地として、金石城のすぐ上に清水山城を築きました。
築城者は宗義智または毛利高政とされます。
宗義智であれば、自主的に築いたことになりますが・・・
毛利高政の場合は、宗氏の監視も兼ねていたように感じます。
宗義智は朝鮮半島では第一陣に配置され、朝鮮軍と戦いました。
豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵は二度に渡り・・・
その後は当然関係が悪化します。
交易で栄えていた宗氏にとっても、かなりのダメージとなりました。
1600年、宗義智は関ヶ原の戦では西軍でした。
宗義智は西軍として伏見城や大津城の攻撃に参加。
本戦も家臣を代理で出陣させ、誰がどう言おうと西軍でした。
しかし、徳川家康は宗義智の領地を安堵し、不問に付しました。
これは、朝鮮との関係修復を望んだためとされます。
宗義智は1609年、朝鮮との和平を結ぶ事に成功。
徳川家康は功を賞し、幕府とは独立して交易する特権を与えています。
1665年、整備・拡張され「金石城」と呼ばれるようになりました。
宗義真は宗義智の孫で、1657年に家督を継ぎ対馬藩主となりました。
すると大浦光友を登用し、大幅な藩政改革を断行。
借財整理や朝鮮貿易の拡大、検地の実施などで財政は潤いました。
藩の格式は10万石格にまで上昇し、宗氏の最盛期を築き上げました。
この頃に隣接する国分寺を移転させ、城域を拡大。
大手櫓門を築くなどして「金石城」と呼ばれるようになりました。
1678年、藩庁が桟原城に移りました。
宗義真は金石城の拡張と並行して、新たに桟原城を築きました。
すぐ近所なので、両城を合わせて「厳原城」と呼ぶそうです。
桟原城が完成すると、対馬藩の藩庁はそちらへ移りました。
その後も金石城は使われていたようで・・・
1813年に大手門櫓が火災で焼失しましたが、1817年に再建されています。
所在地:長崎県対馬市厳原町今屋敷
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