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小漆川城/山形県大江町

小漆川城は一代限りだった左沢藩の陣屋でした。
訪問日は2016年8月5日です。

小漆川城【1】

小梁川城は、大江町の中心部から川を渡った南西にありました。
その細い路地にの脇に、小漆川城の説明板が立っています。

小漆川城【2】
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図があったのでパクリましたが、結構詳しく書かれています。
・・・というか、まぁ、一代限りでしたのであせる
説明板によると、城から川を渡った所に城下町を築いたそうです。
市街地が川の向こう側にあるのは、この城を築いた時からなのでした。

小漆川城【3】

短命な平城の宿命か、城跡らしい遺構は見当たりませんでした。
航空写真を見ると、それっぽさはありそうなんですが・・・
もっとしっかり探せば、堀や土塁の痕跡は見つかるかもしれません。

説明板のある路地が、城の中心部をまっすぐ貫通しています。
その西端に、小漆川城の門が残っています。
移築門が残っているのは、巨海院というお寺です。
この門・・・ではなく、この中にあります。

小漆川城【4】
https://www.google.com/maps/d/view?mid=1Lo_mf1wwQeO0lX23D64yZoA4Qn0&ll=38.37976,140.19868&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図

鯱が両端に乗ったこの立派な門が、小漆川城の大手門でした。
流石は1万2千石だけあって、とても立派な門ですラブラブ


◆歴史◆

左沢藩の陣屋として築かれました。

1622年、最上家が改易されました。
最上家旧領地の内、庄内地方を与えられたのが酒井忠勝です。
酒井忠勝は酒井忠次の嫡孫で、13万8千石の庄内藩に移って来ました。
その中から左沢1万2千石を弟の酒井直次に分与し、左沢藩が立藩しました。
酒井直次は当初、山城の左沢楯山城に入りました。
小漆川城が築かれたのは寛永年間(1624-45)になってからです。
そのため、楯山城は少なくとも2年は存続していた事になります。

1630年、庄内藩預かりとなりました。

左沢藩主の酒井直次が、跡継ぎの無いまま35歳で世を去りました。
そのため、左沢藩は取り潰しとなり、庄内藩の預かりとなりました。

1632年、庄内藩領となりました。

加藤清正の子で肥後藩主・加藤忠広が改易され、庄内藩に預けられました。
その際、幕府の命令により、庄内藩の領地から1万石を加藤忠広に与えました。
その見返りとして、酒井直次の遺領である左沢が庄内藩に加えられました。

1648年、取り壊されました。

酒井忠勝が1647年に没し、子の酒井忠当が家督を継ぎました。
この頃に小漆川城が解体されています。
家督を継いだと当たり前のように書いていますが、勘当寸前だったそうです。
別に悪いことをした訳ではなく、改易され預かっていた叔父の陰謀でした。
・・・興味のある方は是非ググってみて下さいw


所在地:山形県西村山郡大江町左沢

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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