2019/07/29
左沢楯山城/山形県大江町
左沢楯山城は山城ですが、三郭が公園として整備されています。訪問日は2016年8月5日です。

国道沿いに駐車場があり、そこから舗装道が公園まで続いています。
公園が奥に見えますが、手前のココ、思いっ切り崩した感が・・・

その奥にあるココが三郭です。
半分コンクリートで舗装され、残りも芝生で覆われています。
手前の道といい、ちょっと残念な感じがします。

上の写真でちょくちょく見えていた幟がコレです。
毎回の事ですが、撮ろうとするとユラユラ揺れます。
目に見えない妖精さんのイタズラでしょうか?


三郭には測量図付きの立派な説明板があります

さすがは国の史跡です(`・∀・´)

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ご厚意に甘えて、イタダキます。
庇がちょうど影になって、明暗がくっきりわかれてしまいました。
それでも何とかわかるので、そのまま使います。
城域は意外と広く、多数の曲輪が連なっているのがわかります。
ただ、現状はほぼ草木に覆われていますけど

オリジナルのままではわかりづらいので、歩いたルートを書き入れました。
拡大表示のリンク先には、オリジナルと2枚並べて載せています。

三郭の展望台からの眺めです。
最上川と大江町の市街地を一望出来る絶好の立地です。

先ほどの場所が三郭だと書きました。
では主郭はどこ?って思いますよね?
説明板の図を見ても、どこにも主郭とか本丸とかは書かれていません。
まぁ、現地ではこんな光景が見えますので、言わずもがなですけどw
図で「八幡座」という文字が入っているのが、この一番高い所です。

真夏の8月ですが、ここまで来たらもちろん行きます。
比高450メートル登ったり、2時間掛けて登ったこともありますので。
・・・進んで登りたいかと言うと、そういう訳でもありません。
城キチのサガというか、ほぼ条件反射です


三郭から駐車場方向へちょっと戻った所が、八幡平という曲輪です。
ここを通って先へ進みます。

八幡平のどっちかに、虎口があります。
ココで最初に見た「城跡らしさ」です


八幡平を抜けると、下に道が見えます。
駐車場から来た道が、公園じゃない方へ分岐した道です。
歩く道はそっちの方へ下って行きます。

主郭の八幡座へはどう行けば・・・?となります。
ココは三郭の公園以外には、これといった案内はありません。
とりあえずそっち方向へ登れそうな道を探します。
先ほどの下って行く道を渡った所に、よじ登る感じの道があります。

他に選択肢がありませんでしたので、道があってホッとしました。

道端から山道に入り、登ること約5分で結構広い場所に出ました。
ココがこのお城の何なのかがサッパリわかりませんが・・・
三郭と主郭があったので、二郭でしょうか?


さらに登ると、まだまだ高い所があります。
もちろん、一番高い所めざしてよじ登りました。

これ以上登れなくなったのがココです。
端っこの土盛りは、たぶん土塁なんだと思います。
特にこれといって標示は何もありませんでしたが・・・

iPhone様で見たら、予め印を付けておいた所のすぐ近くでした。
ということで、どうやらここが主郭の八幡座のようです。
当時は地図に等高線が表示されていましたが・・・
今見ると、等高線は全く表示されなくなっています。
Googleマップの地図も、年月とともに変わったようです。
◆歴史◆
14世紀後半に寒河江大江氏により築かれたと伝わります。
寒河江大江氏は、大江広元の長男を祖とします。
1221年にあった承久の乱で、宮方に味方したため、嫡流ではなくなりました。
領地もかなり削られましたが、寒河江を中心に続きました。
寒河江大江氏は、鎌倉時代末期に北条得宗家の圧力を避けるため下向しました。
嫡流の長井氏は下向時期が遅れ、結果として伊達氏に領地を奪われています。
寒河江大江氏6代目の大江元政は、1359年に斯波軍との戦で戦死しました。
そのあとを継いだ大江時茂は、一族を寒河江各地に配置して守りを固めました。
この時に三男・元時に左沢の地が与えられ、左沢氏の祖となりました。
左沢元時は1368年、最上氏の祖・斯波兼頼との戦で戦死しました。
この戦は漆川の戦と呼ばれ、寒河江大江氏が大敗しました。
寒河江大江氏は斯波兼頼に降伏し、以後は最上氏に従うようになります。
1385年に伊達政宗が長井氏を滅ぼし、置賜郡を領地に加えました。
伊達政宗は上方の幕府寄りなのに対し、大江氏は鎌倉府寄りでした。
そのため、たびたび戦うこととなりますが、伊達軍を撃退しています。
(1479年、1480年の菖蒲沼の戦など)
1504年には、最上義定が盛んに寒河江大江氏を攻めました。
寒河江大江氏では家督争いが起きていて、そこに付け込んだのでした。
大江一族は結束し、最上軍による侵攻を跳ね返しています。
1574年以降、大江一族の結束が崩れました。
1574年、米沢の伊達輝宗が山形に侵攻しました。
これは、最上義守・義光父子の争いで最上義守に味方するためでした。
この時、大江寒河江氏を仕切っていたのが寒河江氏でしたが・・・
寒河江氏が最上義光に味方したのに対し、他の一族は最上義守に味方しました。
一度は降伏した寒河江氏でしたが・・・
後に再び最上義光に同調し、最終的には最上義光優位の状態で和睦しました。
最上義光が最上家を掌握したことで、後に大江一族の悲運へとつながります。
1584年、最上義光が大江一族を滅ぼしました。
最上義光は、敵対勢力を倒して次第に勢力を拡大しました。
伊達輝宗に同調した上山氏を攻め、上山城を手中に収めました。
また、庄内の大宝寺氏や、最上八楯の天童一族を攻めています。
この中で、大宝寺に近づいていた寒河江氏が1584年に滅ぼされました。
左沢の詳細は?ですが、この時に最上義光の城となったようです。
1600年、上杉軍に攻められました。
関ヶ原の戦の時、東北地方では上杉景勝と最上義光が戦いました。
この時、左沢楯山城も上杉軍の分隊に攻められたそうです。
1622年、廃城となりました。
この年、最上家がお家騒動が原因で改易されました。
代わって、出羽国庄内地方が酒井忠勝に与えられました。
その中から1万2千石が、弟の酒井直次に分与されて左沢藩を立藩しました。
酒井直次は山城の左沢楯山城を廃し、新たに小漆川城を築きました。
小漆川城築城が寛永年間(1624-45)なので、この時期まであったようです。
所在地:山形県西村山郡大江町左沢(左沢楯山城史跡公園)
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