2019/07/23
天童城/山形県天童市
天童城は最上八楯の盟主・天童氏の城でした。訪問日は2016年8月5日です。

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天童城の跡地は、天童公園となっています。
図では下側にある愛宕池は、リアルでは北側にありますw
その池から公園へ登る入口の道端に、天童公園の案内図がありました。
何となく撮ったので、とりあえずパクッておきます。

天童公園の駐車場です。
貸し切りです(`・ω・´)v
これだけの広大な平坦地だったら、さぞかし遺構を破壊したのでは?
・・・なんて、ゲスな勘繰りをしてしまいます。
昨日聞いた言葉をそのまんま使ってます。
あんまり目の前の人には使ってはイケナイ言葉ですけど


この駐車場の端っこに、天童古城の説明板があります。
まだ新しいですネ


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せっかくなので、イタダキます。
今の立ち位置を基準としているので、この図も南北が逆です。
先ほどの駐車場は、中央郭の半分のようです。
かなり広いのですが、城全体から見たらほんの一部分でした。

駐車場から主郭のあった愛宕神社を目指します。
見た目は今風ですが、形を見れば山城の虎口ですね


この光景、どう見ても神社ではなくお城です(*´▽`*)

途中いくつか平坦地がありますが、端折ります。
ここが愛宕神社のある主郭です。
山城の最上部ですが、そこそこ広いです。

その真ん中がこんもり高くなっています。
これは櫓台だと書かれていました。
周りを木々で覆われると、見晴らしは良くないですが・・・
往時は木を伐採していた視界を確保していたのですね。
◆歴史◆
1336年、北畠天童丸により築かれました。
北畠天童丸は、南朝方として出羽探題・最上氏と競いました。
その拠点としたのが天童城です。
天童の名の由来の1つが、北畠天童丸と考えられています。
事績はあんまりわかりませんが・・・
1370年代に最上氏に敗れ、天童を去りました。
その後の消息は不明ですが、津軽の鯵ヶ沢にも天童城があったそうです。
その辺りは戦国時代まで、浪岡北畠氏の勢力圏でした。
もしかしたら、という説があるそうです。
1375年、天童頼直が居城としました。
天童氏は里見氏(=新田氏)を祖とする一族です。
が、里見義宗は跡継ぎが無く、斯波家兼の末っ子を養子に迎えました。
その養子が成生城から天童城へ居城を移し、天童姓を名乗りました。
天童氏は氏族上は里見氏ですが、血縁では最上氏の血が流れています。
以後、上山や東根などに一族を配置し、次第に勢力を拡大。
最上氏に匹敵する、独立した勢力を築き上げました。
戦国時代は最上八楯の盟主となりました。
1514年に最上軍が伊達稙宗に敗れ、伊達家に降伏しました。
1522年には最上義定が跡継ぎ無く死去。
最上義定の弟の子が2歳で最上家を継ぎました。
これにより、伊達家の支配が強まりました。
これを嫌った最上一族と天童一族が連合体を結成。
最上八楯と呼ばれ、天童氏を盟主に伊達家に抵抗しました。
1577年、最上義光に攻められました。
きっかけは1570年頃始まった、最上義守・義光父子の争いでした。
天童頼貞は最上義守・伊達輝宗に味方し、最上義光と敵対しました。
最上父子の争いは最上義光が勝ち、伊達家からの独立を勝ち取りました。
最上八楯は最上義光の勢力拡大に抵抗。
1577年には最上義光が天童城を攻めました。
この時は最上八楯の協力により最上軍を撃退。
和睦し、天童氏の娘が最上義光の側室となりました。
1584年、最上義光に攻め落とされ廃城となりました。
最上義光は和睦した後、最上八楯の解体に取り掛かりました。
構成する個別の家を1つ1つ懐柔し、味方に引き入れました。
1579年に天童頼貞が没し、12歳の天童頼澄が家督を継ぎました。
1582年には最上義光の側室・天童御前が没しました。
すると、最上義光が天童家を攻めました。
この時、最上八楯の有力者・延沢満延が最上義光方に寝返りました。
天童城は落城し、天童頼澄は母の実家・国分氏を頼って落ち延びました。
この時に天童城は廃城となりました。
天童氏は後に伊達政宗に仕え、伊達家臣として続きました。
所在地:山形県天童市天童(天童公園)
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