2019/07/20
成沢城/山形市
成沢城は最上一族である成沢氏が守る、山形の南の重要な拠点でした。訪問日は2016年8月5日です。

城跡は公園として整備されています。
東側にはこんな感じで立派な駐車場があります。
道路を何気なく写していますが、実は堀切の跡なんです


駐車場にはこんな感じのものがいくつかあります。
これは堀切についてのもので、素晴らしい図が載っています。

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その図です。
山全体に多数の曲輪を配置した、大規模なお城だったことがわかります。

駐車場脇から、整備された道があります。

北側に登ると、二郭に至ります。
お堂は馬頭観音堂です。

城内はこんな感じが続きます。
図ではたくさんの曲輪が描かれていましたが、あまりわかりません。
土塁で仕切られているようにも見えますが、そんな感じでしょうか。

ここは「土塁」と案内がある所です。

曲輪がわからないのは、道以外草で覆われていたからかもしれません。

ということで、主郭に到着です。

奥には「城主道忠公尊像奉載記念」の石碑と説明板があります。
道忠公は成沢道忠、説明板は成澤八幡宮奥の宮の御由緒書きです。
◆歴史◆
1383年、成沢兼義により築かれました。
成沢兼義は最上氏の祖・斯波兼頼の孫です。
はじめは別の場所に城を築きましたが、2年後にココに城を築きました。
成沢城は山頂に位置し、山形城や上山城、長谷堂城を一望できます。
山形の南の防衛拠点として、置賜郡の伊達氏、上山城の上山氏に備えました。
戦国時代には成沢道忠が城主でした。
1578年、伊達輝宗が上山満兼を寝返らせ、最上義光を攻めました。
この時、成沢道忠の奮闘もあり、伊達・上山連合軍を撃退しています。
1600年までは坂光秀が城主でした。
関ヶ原の戦があった時、出羽では上杉軍と最上軍が戦っていました。
慶長出羽合戦と呼ばれる戦で、最上方が劣勢でした。
直江兼続率いる2万5千の上杉軍が、長谷堂城を攻めましたが・・・
関ヶ原での本戦で西軍の敗報が伝わり、上杉軍は撤退しました。
この長谷堂城を巡る戦いでの活躍により、坂光秀が長谷堂城主となりました。
・・・前置きが長くなりましたが、その前が成沢城の城主だったそうです。
坂光秀は、長谷堂城主・志村光安の娘婿でした。
1622年、廃城となりました。
その後、何人かが城主になりました。
その中の1人が、氏家光氏です。
氏家姓ですが、成沢道忠の子です。
最上義光の側近・氏家棟守は、子に先立たれ後継ぎが居ませんでした。
そのまま1593年~1595年の間に氏家棟守が没してしまい・・・
従兄弟である成沢道忠の子に、最上家の宿老・氏家家を継がせました。
・・・かなり強引に書いていますが、経緯はわかりません

氏家光氏は最上義光の娘・竹姫を正室に迎え、1万8千石の宿老となりました。
1622年、最上家は家中の内紛が原因で改易されました。
この時に成沢城は廃城となりました。
氏家光氏は長州の毛利家預かりとなり、そのまま毛利家に仕えています。
所在地:山形市蔵王成沢
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